大三島

愛媛に帰って、最も気になっていた大三島に初めて行きました。大三島には今治市伊東豊雄建築ミュージアムがあります。去年開催された東京オリンピックの新国立競技場のA案とB案が最終的に残り隈研吾氏の案が採用されたのですが、されなかった案を提供したのが伊東豊雄氏でした。この伊東氏の知り合いが関東から来られ、大三島に行くというので便乗旅行となりました。知り合いと合計4人の楽しいドライブでした。

まず着いたのは、大山祇神社。ここには日本最古、樹齢3000年のクスノキがあります。それより400年若い樹齢2600年のクスノキは、つっかい棒を必要としないで、空に向かって向かってそびえています。もうこれを見るだけで来た甲斐がありました。そして、全国の甲冑(かっちゅう)の8割が収められている宝物館、国宝館を見学。あの源義経は伊予守(いよのかみ)だったのです。源義経の奉納された甲冑、武蔵坊弁慶の使っていた薙刀(なぎなた)など歴史的人物の所有物が国宝、重要文化財として展示されています。1000円の入館料の値打ち以上のものでした。

頭がふらふらするほどの感動の後は、大漁というレストラン。この海鮮丼は凄いものでした・・・普通の海鮮丼とは違います・・・というのが精一杯・・・20~30分の待ち時間など、問題なしでした。そして、今治市伊東豊雄建築ミュージアムに行き、大三島を日本一の島にするプロジェクトを体感しました。夕方には鍼灸院に戻り施術をしたのですが、その患者さんに言われました。

「先生、そこまで行ったら潮流体験せなアカン。鳴門の渦潮なんか、オモロないけどあそこの潮流は凄い、下から渦が昇って来よる・・・それと、マーレ・グラッシア大三島の露天風呂。夕方に行かんとアカン。夕方でっせ、夕陽が海に沈んでキラキラ輝いて、それは絶景!」

ロクムシ

9月3日にHOP株式会社の皆様が、実家を訪ねてくださいました。幼い頃から、近所の友達と遊びほうけた場所を、見て体感していただくのは、嬉しいものです。案内しながら、走馬灯のように幼い記憶が蘇(よみがえ)ってきました。

今の子供達が味わえなかった、自然との戯れ・・・・ただそれだけでした。お宮とお寺(隣り合わせになっています)で、夕暮れまで遊び続ける毎日。どこにも行く必要がありませんでした。この2カ所とその間を流れる小川が最高の遊び場所。時に、鎮守の杜に駆け上がることもありました。雨に日は、お宮の畳間で相撲を取ることができました。最高の贅沢は、御神木のクスノキ。これは、洞になっており、横に空いた入口から入り、内部をよじ登り木の上まで行くことが出来ました。当時最も流行っていたのは「ロクムシ」。

野球の道具なしバージョンで、ボールは軟式テニスボール(確か10円)でそれをワンバウンドで投げ、手をグーにして打つのです。フライになったボールは手の平
に当てると、打者アウト。またゴロになったボールを取って相手にぶつけるとアウト。6回ホームベースを踏む(1人で6点取る)と、全員(アウトになって試合に参加出来なかった人も)がもう一度打つことが出来る・・・初期化することが出来るので、最後まで残ってチームメートを助けた人が英雄になれるのです。

夕方になり、ボールが見えにくくなっても、遊び続け、親父が、

「ひろむ、ご飯じゃ、帰って来い。」

「うん、分かった・・・・帰るけん。」

と返事をしても遊び続けたのです。しばらくして、再び父親が

「何しよんぞ、早よ帰って来んか・・・皆んなもやめて帰れよ。」

で、泣く泣く遊びをやめる日々でした。全てに感謝です。

限界集落

 

東京の大親友が、仕事仲間3人と松山に来られて、3日目の昨日は、私の実家をご案内しました。まず、父親の実家である川上神社に行きました。この神社は道後平野の扇状地の要(かなめ)に位置するところにあります。そのため、松山市の見張りが出来る個所のように思います。

そして、母親の実家であり私が生まれ育った惣河内神社、隣りには金毘羅さん。松山市から20kmも離れた山間地にもかかわらず、立派な神社とお寺です。ここは、高知と松山を繋ぐ宿場でもあったので、江戸時代には随分栄えていたようです。しかし、今や*限界集落というレッテルがついています。

私は、惣河内神社の長男に生まれたにもかかわらず、地域を出て弟に宮司として、頑張ってもらい、後ろめたい気持ちはあるのですが、私でなくしっかり者の弟が後継ぎをして、正解だと思っています。私で出来る範囲の応援をしていくつもりです。

東京から来られた4人は、神社、お寺、近くにある渓谷の霊気、冷気、マイナスイオンをたっぷり感じていただいたと思います。この奥には、夏目漱石、正岡子規が訪れた白猪の滝という雄壮な滝もあり、ちょっとした穴場です。そのうち、弟を中心として「限界集落からの逆襲」があると思います。乞うご期待!

*限界集落(げんかいしゅうらく)とは、人口の50%以上が65歳以上で、農業用水や森林、道路の維持管理、冠婚葬祭などの共同生活を維持することが限界に近づきつつある集落のことである。

2015年の国土交通省の調査では、今後10年以内に消滅する恐れがあると予測される集落は570あり、いずれ消滅する恐れがあるとみられる集落と合わせると、過疎地域全体の4.8%(3,614集落)になる。

講座

昨日は、大学時代の大親友が仕事仲間3人と松山にやって来ました。午後1時から、親友と仕事のパートナーの女性を治療したのですが、治療の前に、「血液は小腸からできる講座」「ほとんどの人は、右骨盤が上前方に変位している講座」など、講座形式で進めました。進めながら、『こういうの、良いな~』などと思ったのです。

2人に同時に喋ることで、時間を有効に使えます。そして、私の治療に理解を示してもらえやすいと感じました。もっとも、今回は時間的な余裕があり、わざわざ東京から来られたということもあり、講座をしたかったのだと思います。

その後、市内の料亭で10時まで飲んで楽しい時間を過ごしたのです。今日は、ここまで!

Give and give

鍼灸院と看板を掲げると、敷居がどうしても高くなります。特に、当院は予約制のため、飛び入りの治療がしづらい状況にあります。そこで、ある患者さんから面白いアイディアを頂きました。

「先生、畳部屋でゆっくり時間を過ごすだけの時間を作ってあげたら、どうです?無料で。」

「確かに、それは面白いですね・・・・最近、畳部屋が少なくなっ来て、畳部屋でゆっくり仰向けになる事がないとおっしゃる患者さん、多いんです。」

その患者さんは、まず身近の人たちとしっかり接して、必要な物を、give and give 与え続けることが大切だと、指摘してくれました。確かに当院の近くには、中学校があり通学路になっており、信号も近くにあるため、朝の出勤時には、車の行列が出来るところ。この状況をしっかり把握して、次のステップに進むべき時期かも知れません。そうすることで、敷居が低くなって交流が自然に生まれてくるように思います。その様になれば、いつの間にか、give and takeの関係になっていくように感じます。

出来れば、中学校の2学期が始まる前に、看板を作るつもりです。今日は、パテを塗って準備が出来ました。明日、明後日でデザインの下絵が出来るといいのですが・・・お楽しみに!

仙台育英優勝おめでとう!

h

宮城県代表の仙台育英高校が、東北勢初めて優勝!

東北とはあまり縁がない私ですが、嬉しくなりました。大学時代の先輩、後輩には東北出身の野球メンバーが数多くいたので、その方々が喜んでこんいるイメージが浮かぶと、本当に嬉しくなります。私がバットを短く持って、当てるバッチングだけしかしていなったのを見た秋田県出身の先輩が、

「佐伯、バッチングは、・・・キン◯マを、はさむ事。」

この一言で、私の野球人生がガラリと変わったのです。下半身の捻りを上手くバットに伝えると打球は飛んでいくのです。この一言を体得すると、もうホームランしか狙わないバッターに変身してしまったのです。どんなことがあっても、私はバッターボックスで構えるとホームランしか狙っていませんでした。170cm70kgの思い切りのいいバッターになってしまったのです。しかも、直球を「1、2の3」で待っている単純なバッター。変化球をヒットにする事はありませんでした。

それで打ったホームランは2本だけ。打撃に関しての記憶は断片的で、高校の打撃はほぼ覚えていません。大学でもいい加減なもので、2本のホームとランと、1本の三塁打を覚えているくらいですが、1番の記憶は、なんと言っても3年の春。ベーブルースがホームランを打った静岡県にある草薙球場での合宿のこと。

選抜高校野球準優勝投手という、鳴り物入りの初見投手が我がチームに入って来た時、大学野球の力を見せつけようと私が最初にバッチングゲージに入ったのです。その日は霧に覆われ湿気が多く、しかも練習用のボールとなると、ボロボロで重いのです。こんなボールは芯に当たらないと飛びません。公式試合で使用するボールは新しくて軽いので、真芯に当たっても手ごたえが無いのです。ところが、ボロボロのボールでしかも湿気がいっぱいの物を真芯で捉えると、物凄い手ごたえがあるのです。その時は、その感覚。1年生の初見がピッチングマシンにボロボロボールを入れて、

「ボールいきます。」

「ガキーン!」

とんでもなく重い感覚がバットを振り抜いた後まで、残りました。その重い感覚が一直線で外野席の芝まで(つまり、ホームラン)繋がっていったのです。「ドスン」という音を残して。しかも、2打席連続で・・・・これには、あの初見も頭を抱えて、

「スゲエーーーー」

とまでは覚えいるのですが、それ以降の私の成績は下がる一方・・・でも、こんな事を書く事が出来たのは、仙台育英高校のおかげです。・・・仙台育英高校おめでとうございます。ありがとうございます!

となりのトトロ

夏休み恒例「となりのトトロ」のテレビ番組が昨日ありました。しばらく観ていないので、とても新鮮に観ることが出来ました。主人公の一人、次女のメイちゃんが、ほぼ私と同じ世代です。私は今年で68才になるので、60数年前の時代背景になります。大学教授のお父さんが、田舎(多分、茨城県)に家族でお引越し。三輪トラックで舗装されていない道を走るというシーンは、心に響きます。私が幼い頃の道路は、赤土の凸凹道でした。

典型的な日本家屋に、戦後のアメリカからの影響で、洋間を作り足した家屋で繰り広げられる物語。私には2つの故郷が重なって見えてきました。1つは、実家の茅葺民家で11才まで過ごした体験。実家は神社の社務所だったので、遊び場は、神社。その御神木は樹齢1000年近い(正確にはよく分かりません)ウラジロガシ。このウラジロガシには洞があり、小さな子供達は、中に入ることができ、しかも中からよじ登って鳥居の天辺を眺めることが出来たのです。この遊びを毎日していたのです・・・なんと言う凄い体験なんでしょう。丁度、メイちゃんが大きなクスノキの洞に入って、トトロと出会うシーンと重なるのです。

2つめは、メイちゃんがトトロからもらったドングリを庭先に植えたシーン。メイちゃんがお父さんと姉のサツキを誘って夜に、何度も何度も両手を上げて皆んなで尻もちをつくシーン。すると、みるみるうちに、芽が出て一気に大木へと成長するのです。

私は長女がメイちゃんと同い年になる頃、京都の山奥、美山町というところで生活していました。トトロの映画と同じくらいの田舎でした。茅葺き屋根の民家で小さな庭に、柿の木が植わっていました。そこにドングリを植え、毎晩長女(メイちゃんと同じ帽子をかぶって)と私と元妻で何度も何度も両手を上げて皆んなで尻もちをつくシーンを再現していました・・・・今となっては、本当に貴重な体験でした。

「三子の魂百までも」といいます。我が子3人すっかりアメリカ人になってアメリカで生活していますが、美山町の生活が少なからず影響していると信じています。

オタマジャクシ

腸造血説が生まれるエピソードを、Wikipediaからご紹介します。

『森下博士 研究半生を語る(腸造血説に至るきっかけ)

昭和22(1947)年、終戦後の食糧難の時代に、軍が池を遊ばせるのはもったいないので食用ガエルを養殖して食料の足しにしようと、新宿御苑をカエルの養殖池にした。それを耳にした当時学生の森下は、カエルを獲りに行ったところ、まだオタマジャクシだった。ウナギの頭に尻尾をつけたような大きなオタマジャクシで、これは食べられそうにないと思ったが、せっかく来たのだからと4、5匹持ち帰った。

そのオタマジャクシは背中は真っ黒なのに裏返してみると白く透明で、体の割に大きな心臓がピクピク動いている。心臓に針を刺すと僅かな血液が注射筒に入ってきて、その血液をスライドに載せて観察したら、大きな堂々たる赤血球だった。

手足の無いオタマジャクシの心臓には、すでに成長したカエルと同じ血液が循環していて、当然それが造られる場所は何処かということになる。心臓がピクピク動いているすぐ下に、腸がきれいに渦を巻いて、蚊取り線香のようなスパイラルがあるだけで他には何も見当たらなかった。そのときに、赤血球を造っているのは間違いなく腸だなぁと、直観的に思った。これが、森下が腸造血説に至るきっかけだった。』

とあります。食べ物が腸に行き、血液になる何と単純明解な事でしょう!また、陰陽五行の東洋医学の世界では、肝臓-胆嚢 心臓-小腸 脾臓-胃 肺-大腸 腎臓-膀胱 が陰陽の関係にあり、心臓-小腸が表裏一体であることが古代より伝わっているのです。小腸で血液が出来、心臓で運ばれるという事実を物語っています。

森下敬一先生

名古屋の大沼四廊先生セミナーに行き先生に、

「やっぱり千島学説が正しいですよね。」

とさりげなくお伺いしたことがあるのですが、大沼先生は、ニコッと笑われただけで、お言葉を返していただけませんでした。大沼先生は、森下敬一先生から20年間学ばれたので、千島先生ではなく森下学説を継承されておられます。そこで、森下敬一先生のWikipediaを調べたところ、千島喜久男先生と森下敬一先生は同じ様に、腸管造血説を唱え「千島森下学説」として一般に公表していたのですが、思想的立場の違いから決別されています。それが、下記のWikipediaです。

『昭和36(1961)年、千島は雑誌「生科学評論」に「現代医学の五原則批判」という論説を載せた。これは現代医学批判論であり、森下も大いに共鳴したものの、千島はそれを「千島学説の八大原理」という哲学に飛躍させていく。千島は森下に対し、牛乳推奨論や千島哲学に同調するよう迫り、あくまでも科学的方法で進みたいとする森下を、千島の発行する雑誌「生命と気血」で2度にわたり激しく攻撃する。森下は、科学と哲学という思想的な立場の違いと認識し、黙して語らず、両者の協力関係は消滅に至る[9]。

千島は昭和53(1978)年、十二指腸潰瘍を患い永眠(享年79歳)。昭和56(1981)年、腸造血説などの学説権利について、千島の遺族が森下を提訴するも、森下側が全面勝訴している(岐阜裁判)。』

残念ながら、このような対立があったようです。そこで、未だに骨髄造血説を信じておられる方に、森下敬一先生の実験をWikipediaからご紹介します。 

『森下は敗戦後の医学生時代に、オタマジャクシがカエルに変態していく過程の血液の状態を観察し続けていた。オタマジャクシは手足が無いのに、大人のカエルと全く同じ形の赤血球が同じ数だけ存在しており、造血に手足の骨髄は関係ないことをすでに確認済みであった[5]。

それ以前に、動物の骨髄組織の95%は長幹骨(大腿骨、下腿骨、上腕骨、前腕骨)に存在することを実験によって確認しており、骨髄組織と体を連結している血管を遮断しても貧血が起こらないことも実験で済みである[5][10]。

卒業後の1年間(1951年)、国立相模原病院(陸軍第三病院)にインターンとして勤務し、多くの戦傷者の中で手足を失った兵士たちを観察すると、みな血色が良いことに気づく。彼らに協力を依頼し採血して調べたところ、普通の人より赤血球がmLあたり数十万個多いという結果を得た[10]。』

以上です。

千島学説

 

改めて、千島学説の書を読む

『世界大戦も終わりに近い、1940年に私は中等学校教師を退職し、引きつづいて、九州帝大農学部畜産学研究室の嘱託(しょくたく)として赴任、盛岡時代の恩師丹下正治先生の下で専心研究に打ち込めるようになった。

そこで、丹下教授から「鶏胚子の原始生殖細胞の起源に関する研究」というテーマをいただいて42歳の遅まきながらの勉強に励んだ。そこで私は意外な発見をすることができた。

これまでの研究者は、鶏の胚子の生殖腺(睾丸、卵巣)の組織発生についての研究は、みんな胚子のウォルフ氏体(中腎)と付着している生殖腺を切り離して顕微鏡検査をしていたが、私はそれを切り離さずに中腎と生殖腺とを一体にして標本を作り、それを調べたところ中腎と生殖腺の出来始めものは両者の境がなく連続的であり、しかもその境の付近には血管外に出た赤血球が無数に散在していて、それが原始生殖細胞や生殖腺のすべての細胞に分化、移行をしていることを確かめることができた。

これまでは、生殖細胞細胞は分裂増殖して、子々孫々に伝わるものとされてきたのに、事実はこれに反し、体細胞の一種である赤血球から生殖細胞その他へ移り変わっている状態を見た私は、元は唖然として、自分の目や頭を疑うほどのショックを受けた。しかし何百枚ものプレパラートを入念に調べてみたが、細胞分裂によるのではなく、赤血球から変化するものであることを確認した。』

千島喜久男先生は、赤血球が生殖細胞へと移行する事実にショックを受け、改めて調べても赤血球から細胞が生まれるという事実を確認されたのです。この事実をだれも否定することは出来ません。千島先生はその後、小腸で食べ物が赤血球になることも突き止められました。

つまりは、食べたもので血液が作りあげられ、血液から体が出来るということなのです。事実はこのように単純明解なのです。