東雲能

 

松山城近くにある東雲神社で、能があり、雨にもめげず初めて見学しました。私の祖母がこの神社の近くで生まれ育ったので、幼い頃から能を見ていました。その影響で晩年まで、能舞い、謡は続けていたのをよく覚えています。能を見ながら、祖母の舞いがオーバーラップして懐かしい時間がすぎて行きました。主催の東雲能実行委員会の責任者が、私の高校3年の時の同級生ということもあって、見なければならないという指名、運命を感じたのです。

実を言うと、東雲神社と能は、日本における能文化に大いなる貢献をしているのです。下記にインターネットからの引用文を記載します。

『明治維新に際し、藩主の所蔵する能面、能装束が競売に出されることになりました。このとき、高浜虚子の父、池内信夫と正岡子規のおじ歌原良七、藤野漸が保存のために奔走しています。能道具は東雲神社に奉納されることとなりました。現在、この衣装や能面は「東雲さんのお能」で見ることが出来ます。県指定の文化財。能面は室町時代から江戸時代の中期、狂言面や衣装は桃山時代から江戸時代中期のものが多いようです。能面153面、狂言面42面、能衣装110点が保存されています。

(中略)

また、高浜虚子や河東碧梧桐、内藤鳴雪、藤野漸ら、俳句の巨頭たちは能の名手でもあったといいます。高浜虚子のお兄さんである池内信嘉(1858~1934)は能の功労者。明治35年(1902)上京し、雑誌「能楽」を発刊し、後継者の育成につとめています。後に、東京音楽大学の教授となり、日本能楽の再建に大きく貢献しています。能楽の重鎮、金子亀五郎(喜多流)、川崎九淵(太鼓)、宝生弥一(ワキ)たちの松山出身者を指導・庇護したことでも知られています。』

かつては、松山は、能王国とも呼ばれていたそうです。俳句はもとより能も盛んであった松山は、文化水準が高いようです。また、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」油屋は道後温泉をモデルでしたが、あのお面をかぶったおばけは、やっぱり能の演者がモデルだと確信しました。動きといい、無表情な面は迫力があるのです。やはり、実物を見て感じることが多いことに気づきました。