昭和30年代にニジマスや鶏の白血病を完治させていた森下敬一先生は、桜沢如一氏と出会い、助言をいただきました。その経緯を3回に渡って掲載します。この出会いが長寿研究を加速することになります。
『大学研究室時代の昭和31‐32(1956 - 1957)年ころ、当時「日本が生んだ昭和の怪物」と噂されていた桜沢如一に興味をもち、そのグループの集まりに参加した。
森下は自己紹介を兼ねて研究内容を話したところ、桜沢は「それは歴史的な考え方だ。日本から世界に向けて発信されなければならない、ユニークで革新的な真理だ」と言い、その言葉を聞いた森下は、逆に「この人は凄い人だ」と思った。
森下の腸造血説が初めて新聞に採り上げられたのは昭和32(1957)年5月で、桜沢が記事を目にしたかどうかは微妙なタイミングで、これまで森下の話を理解できる者は殆どいなかったからである[5]。
桜沢は、昭和30年代初期から東京光雲閣において例会を開いており、日本の新しい時代を創ろうというメンバーが集まって熱気にあふれていた。例会には、毎回そうそうたる知識人が集まり、森下は足しげく参加するようになる。そこには、西洋医学を学んだ医師で参加する者は、森下以外に全くいなかった。
当時、森下が座間近くの養鱒所で、自身の研究を基に考えた餌でニジマスの白血病を完治させ、次いで鶏の白血病を完治させて、鶏の血液の状態がどんどん変わっていくことを例会で話した。その数日後に桜沢から電話が入り、夫妻で何度も研究所を訪れるようになった。
鶏の白血病完治について桜沢は「勝因は、ある特定の条件でなく総合的な結果だろう」と述べ、土を調べるよう助言する。森下は使用した腐葉土を調べ、1年がかりで2種類の結晶物質を抽出し、黒い結晶は白血球を減らし、白い結晶は白血球を増やすことを突き止めて、それぞれの化学構造を明らかにした上で桜沢に提出した[8]。』
森下敬一先生が、土を調べることで環境の重要さに気づき始めるようになって行かれます。次回は思いがけないような、展開をご報告します。