奥座敷と龍

東温市川内公民館大ホールで、「松山藩の奥座敷・河之内~眠れる龍が再び起きあがる!~」

という講演がありました。地方の宝を見直し、未来に生かすという非常にポジティブなもので、奥座敷と龍を河之内のキャッチフレーズにしたのは、見事でした。

講師は、惣河内神社宮司の佐伯敦氏。

誰も、河之内(私が生まれ育った地区)を松山の奥座敷と言ってませんでした。また、龍との関係を明確に5柱(5の龍)として発表したのも見事(河之内には、5つの龍がある)。これを軸に河之内を見つめ直し、世に知らせる。私も出来る限り手伝います。講演の冒頭に、祖父佐伯惟揚(これあき)の

「河之内景勝保存に就き村当局への要望書」を読み上げたのは、祖父に可愛がられた私にとって、胸を打ちました。その一部を紹介します。

「河之内は独り自然美を持って誇るに止まらずその中に古文化財を黙綴し和名の文人墨客の曽遊の事実があり地理歴史的の両面より検討するも一僻寒村として世にも稀なる景勝の地といはねばなりません。(中略)さらに昭和廿四年本県宇和島出身の俳人松根東洋城(明治廿八年日本芸術会員当選)は村内に渋柿同人分布ある関係上河之内に一畳庵を営み二年に亘り実に十五ヶ月滞在且暮河之内の景趣を賞味美し幾多の句や文を残して行った子規、漱石、東洋城いづれも我国俳壇の第一人者であれば河之内はまさに文人墨客曽遊の豪華版の地であります。」

正岡子規、夏目漱石、松根東洋城がこの片田舎に関係し、句を残しておられます。漱石に於いては、地元の滝に関して50句残しており、これらを句碑として滝の道中に設置する案には感銘しました。コロナ禍後、世の中は変わります。河之内がその先駆けになります。