医者は博物学者であるべき

私は、山元式新頭鍼療法(YNSA)を学び実践して3年。気づいたのは創始者、山元勝敏先生の偉大さです。鍼だけで難病を治しておられます・・・150万人もの患者さんの治療をされておられます。私は67才で、難病の患者さんを治すまでには至っておりません。このままYNSAだけやっていても年齢的な限界があると感じ、血液の浄化と血流を良くする治療法を身につけようと、名古屋の大沼四廊先生のセミナーに参加するようになりました。

そこで知ったのが、大沼先生の師匠、森下敬一先生です。森下敬一先生の血液研究こそ、現代医学に最も必要とされているように思います。そこで、改めて森下敬一先生の生い立ち、生き方をWikipedia から紹介いたします。

『両親は、神奈川県津久井郡藤野町(現・相模原市緑区)出身。

父は医師で、敬一の幼少時は、当時日本の統治下にあった朝鮮において病院を運営していた[3]

尋常高等小学校卒業と同時に、敬一は父から奈良県の天理中学校(現・天理高等学校)への入学を言い渡される。理由は、日本の内地でドイツ語を学べる数少ない中学校で、両親の住居に最も近かったためだろうという。

敬一は「青天の霹靂だった」と言いつつも、この全寮制の5年間の教育が、自身の人格形成に大きく影響したと述べている。

天理第二中学名簿 昭和20年卒業

在籍した天理第二中学校は全寮制の男子校で、学校生活は軍隊生活以上に厳しいスパルタ教育だった。教授陣は極めて優秀であったが、厳しい教育システムゆえに1年生から2年生に上がるときには、脱走や自殺などで半減するのが常だった。しかし、敬一はのちに、天理中学のスパルタ教育が自分を変えたと言い、「男は若いうちに一度は集団生活の中で、厳しい規律を体験するべき」と折に触れては述べていた[3]。

戦後、両親が引き上げて来て故郷の藤野に移り住む。当時の藤野は無医村で、父は農業をしながら患者を診るという半農半医を行い、敬一はそこから大学へ通った。

学生時代はあまり勉強するほうではなかったと言うが、研究室に入ってからはがむしゃらに突き進み、約20年の研究室時代には医学だけでなく、そこに隣接する地質学、生物学など、生命に関わるあらゆる分野を掘り下げていった[3]。

のちに森下は、自然医学の臨床活動において、「医師は博物学者であるべき」と述べている。医学は人間を対象とする学問であり、その生命現象はまさに小宇宙であって、物理化学、生物学はもちろん、環境や歴史、意識の問題と、目に見えない世界をも含めて総合的に捉えなければ、正しい方向性が見出せない[4]。

医療というものは、基礎理論の上に臨床が成り立つという体系でなくてはならない。医学と医療が別物だという現代の風潮は不勉強から来る誤解であって、若いうちに進化論的な発想から土台を築き上げて臨床を行わなければ、「葦の髄から天井を覗く」というような狭い視野となり、医療がバラバラになってしまう。こうした懸念は、近年の代替医療に対しても同様に抱いていた[5]。』

現在の医療は、専門分野に分かれて宇宙としてのカラダを見ていません。そうのようになってはいけない「医師は博物学者であるべき」と常に心がけて真実を探求されたのだと思います。