戦国時代の武将の体力

先日、大三島の大山祇神社に行き、国宝、重要文化財の甲冑を見て1m80cmもある日本刀を見た時、戦国時代の武将の体力に驚きました。そして、森下敬一先生著書「健康と美容の食生活」の冒頭にその理由が書いてあったのでご紹介します。

『戦国時代の武士たちは、あの重いヨロイ・カブト甲に身を固め、太刀を振りかざして、山野を駆けずりまわっていた。この我々の祖先たちは、われわれ現在日本人たちよりもはるかにすぐれた肉体を持っていたのである。いや、すぐれていたのは、肉体だけではなかった。

その頃の日本人はどんな特徴を持っていたかは、戦国時代の直後に、日本にやって来たオランダ人の印象を通じても知ることができる。この唐人さんが、驚きの目を持って本国に書き送った通信文は、ヤソ通信や日本西教史などに書き留められている。それによると「日本人は、大きく強靭(きょうじん)な体をしていて、力も強い。また根気があって忍耐強く、そして極めて礼儀正しい国民である・・・」と紹介されている。とにかく、その当時の日本人は、すこぶる開放的で、豪気、そしてよく礼節をわきまえた、辛抱強い力持ちだったのである。

その後やってきた元禄時代の様相は、一変する。人の心が閉鎖的になり、社会の一般風潮は、泰平ムードで、華麗・怠惰に流れた浮世絵に象徴される元禄時代は、鎧甲の戦国時代と対照的である。バイタリティに飛んでいた戦国時代の日本人が、退廃的気風の人間に急変した理由は原因はどこにあったのかそれをよく考えてみなければならない。戦国時代と元禄時代の差を一言でズバリいいきるなら、それは「玄米(雑穀)と白米のちがい」といえよう。

重装備の武士たちが俊敏に動き回るためには、どうしても精白しない雑穀を主食としなければならなかったのである。実際、彼らの兵食は、主に「乾し玄米」であった。また、当時、玄米を精白した白米は「ヒメ」と呼ばれていて、それはお姫様か重病人の食べ物とみなされていた。健康な若者が、かりそめにもにすべきものではなかったのだ。この「ヒメ」が一般民衆の胃袋に入れられるようになった時、あの元禄時代がやってきたのである。元禄人が姫や病人のようになってしまったのも、当然のことと言わねばならない。この頃から、日本人の体格や体質はとみに低下しはじめたのである。』

幸い、私が小学生の頃、オヤツは「乾し玄米」でした。いまでもあの香ばしい味を覚えています。祖母さんが作ってくれていました。また、夏には「ばいしゅ」と呼んでいた梅酒に砂糖と氷と水を入れた飲み物を飲んでいました。暑い中、汗ダクダクになって、茅葺き屋根の家に入ると、暗くて冷んやり、

「ばあちゃん、ばいしゅ!」

が、毎日の定番でした。祖母ちゃんありがとうございました。