猫の本能

メス猫モモは、やはり利口です。大手術のあと、ゆっくり過ごしています。押し入れの暗い隅、テレビのウラ側などでじっと動かないでいます。大手術は、大怪我(おおけが)ですから、ひたすら休むのが猫の本能です。この調子で抜糸日(9月22日)まで、休み続けるのではないかと楽観視しています。

治療院から帰ると、ゆっくり休んでいたモモが私の方にやって来て、膝の上でゆっくり。今まででは考えられない甘え様です。大手術がよっぽど大変な体験だったのでしょう。明日は、実家で午前9時から夜まで出張治療を行うのでほぼ1日、モモは留守番をするのです。今までなら、心配することもなかったのですが、今回はちょっと気になります。

帰ってから、しっかりチャルチュウルをあげましょう!

帰宅したモモの2日目

朝起きて、モモの入っているケージを見ると、猫用トイレから紙砂(トイレに流すことが出来る砂)が散らかりケージ内は、グジャグジャです(伊予弁では、「わやじゃのう」っていいます)。そして、左足にくくり付けていた引っ掻(か)き防止用の包帯が、外れていました。モモは、①ケージ②エリザベス③包帯④傷口と4つのストレスが一気に襲って来たため、1番簡単に無くすことの出来る③包帯外(はづ)しを一晩かけてやったようです。

これで、分かりました。ストレスをなくすことが一番・・・①ケージをやめて、いつもモモが生活していた部屋に戻すことにしました。すると、安心した様子で、いつものモモに戻りました。ここで、以前飼っていたミミという利口な猫のことを思い出しました。ミミはマムシに左手(前足)を咬まれ瀕死の状態になりました。その時、我々家族の見ているテレビの前で、全く動かず、ただただ休んでいたのです。2〜3日すると、元気なミミに戻りました。モモも猫の本能があります。きっと、同じ行動をとるはずです。

実際、エリザベスをしているため、猫タワーにも冷蔵庫の上にも上れません。それぞれ1度挑戦したのですが、失敗。また、エリザベスをしたまま、エサも食べられるし、慣れてくるとストレスも徐々に減っていきそうです。それから、私の膝上に乗ってくるという今までにない態度をとって来ました。常に私とは距離を置いていたモモですが、今回のことで、一気に距離が縮みました。今も、モモを膝に乗せて文章を書いている次第です。

抜糸するまでの期間、出来るだけモモと接するよう心掛けます。

メス猫モモ帰宅

 

ソケイ部ヘルニアと子宮摘出手術で、一泊したメス猫モモを、午前中に迎えに行きました。私を見ると安心したのか、

「ニヤ~」

と鳴いてくれました。私は、猫語がまだよく分かりません。H動物クリニックの待合室には、猫に関する本がたくさんあり、もう少し猫の勉強が必要であると実感したのです。さて、そこから40分ほどドライブして我が家に到着。道中では、「ニャ~」というたびに、お話して大手術の労をねぎらいました。

H動物クリニックでは、傷口をなめないようにエリザベスという首巻きを装着され、物々しい姿になっています。早速、友人夫婦の飼い猫チャルルが使用するケージに、入れました。チャルルの匂いに溢れているケージを、しっかり拭き掃除し、ニームオイルを薄めた水を噴霧していたので、すんなり入ってくれました。

ところが、エリザベスをしたモモ、カラダをなめる自然な習性が全く出来ないので、ストレスがたまりそうです・・・・その上、モモの様子が・・・変。

やはり、手術の麻酔がまだ残っているようです。目がうつろで動きが鈍い・・・ゆっくり、休んでもらいます。明日様子を見て、抜糸までの13日間の計画を立てます。

大手術

 

「リリリ~ン」

「はい、佐伯です。」

「こちら、H動物クリニックですが、今からモモちゃんの手術を開始させて戴きます。」

「あっ・・・・はい、連絡どうもありがとうございます・・・・」

13:16分に電話がありました。手術が終了次第、再び電話連絡があるそうです。ずいぶん、丁寧な対応をしてくださるクリニックです。20数年前、飼っていたメス猫・ミミの手術をした時は、このような電話はなかったように思います。時代が随分変わって来たのかもしれません。再発したヘルニアと至急摘出の手術にですから、かなり大掛かりなので、気になります。

「リリリ~ン」

「はい、佐伯です。」

「こちら、H動物クリニックですが、モモちゃんのヘルニアは、股の下まで行っているので、余分に費用がかかりますが、よろしいでしょか?」

という予期せぬ電話が、13:58にありました。40分ほど経過し、かなり大変な手術になっているようです・・・・2時間以上経過・・・・

「リリリ~ン」

「はい、佐伯です。」

「こちら、H動物クリニックですが、無事手術は終わりました。ソケイ部の膜が薄くなり新たな穴が出来ていたようで股の下まで行ってました。」

とのことで、3時間もかかる大手術でした。

あくまで推測ですが、子猫の時、高島屋の駐車場で車に当てられ、横隔膜に穴が空き、肺にまで小腸が届いていたのを、ふさぐ手術をして横隔膜の方はしっかりした。ところが、事故当時、子猫のモモのソケイ部にもキズが出来ており、しっかりした横隔膜から弱いソケイ部の傷口に圧力がかかって小腸が飛び出したのだと思います。

それから4時間後、

「リリリ~ン」

「はい、佐伯です。」

「こちら、H動物クリニックですが、モモちゃんの抜糸までの2週間は、激しい運動は、避けるようにケージで飼って下さい。そして傷口をしっかりふさぐようにして下さい。」

とのアドバイスを受けました。明日、H動物クリニックはお休みなので、クリニックの先生には会えないため、わざわざ電話連絡を戴いたのです。大変良いクリニックに出会うことが出来ました。しばらくは、おてんばモモもケージでゆっくりしてもらうように、説得してみます!

リモート飲み会

 

大学時代の友人3人と・・・・と思いきや、1人は飲み過ぎて沈没。私の仕事が午後9時まであったので、途中参加でした・・・・というか、もう2人の飲み会は、終了していたのです。そこで何とか強引に参加メッセージを送っていると、沈没していない友人とつながりました。

優しい友人、眠い目を一所懸命あけながら、しゃべってくれました。こういう時の会話は、思わぬ展開になるようです。今まで聞けなかったことが聞けたりするのです。居心地のいい空間にお互いがいながら、小さい画面の友人を見て話をすると、思わず本音や深層心理を漂う言葉が生まれ来るのかもしれません。

ここでの会話は、伝えられませんが、リモート飲み会お勧めします!

パラリンピック最終日

パラリンピックが今日で終了。

マラソンが凄いと思いました。様々な障害の男女がグループに分かれて42.195kmを走るのですが、まず男子の車椅子グループが最初に走り1時間30分位で走り抜けるのですから驚きです。その後、女性の車椅子グループがスタートするので、男女のグループが交差することはありません。

続いて、視覚障害者と腕に障害があるある男女が一斉にスタート。すると自然と男女のグループに分かれ始め、男子の腕に障害のあるクラスと視覚障害者は共に2時間20分位で走るため、グループを引っ張り、そのあとを女子が追うという見どころが満載のレースでした。

特に、凄かったのが女子の視覚障害者の道下美里選手。高橋尚子選手、野口みずき選手に次いで、3人目のマラソン世界チャンピオン誕生です。おめでとうございます㊗️🎊🎉

コースの見どころを、スポーツジャーナリストの増田明美さんと、元車いすマラソンの選手、花岡伸和さんが解説してくれたのですが、非常に分かりやすく、楽しい解説であり会話でした。これだと次回も是非とも観戦して応援したいと思ったのです。

ボランティア含め多くの関係者の方々に感謝いたします。日本以外ではコロナ禍でのオリンピック、パラリンピックの開催は無理だったでしょう。それにしても、道下美里選手がゴールイン寸前に日差し戻ったのには驚きでした。その後は、また曇り空になっていったのですから・・・・

祖父の短冊書

先週、書道に興味がある30才代の女性患者Cさんと会話をしていると、私の祖父の話になっていきました。私の祖父は、俳人でした。そのため自作の句を書にする毎日を過ごしていたのです。書道は特に師匠がいた訳ではないのですが、立派な書を生み出していました。

松根東洋城先生が、祖父の俳句の師匠です。地元の新聞にその関係が載っていたので、記載します。

  『宇和島藩城代家老松根図書の孫で、俳誌「渋柿」を創刊した俳人松根東洋城(1878~1964年)が同誌の代表同人だった佐伯巨星塔(きょせいとう、1898~1984年)に宛てた手紙やはがきなどの書簡約500通が東温市河之内の惣河内(そうこうち)神社に残されており、専門家の注目を集めている。 

巨星塔は同神社第12代宮司。東洋城は神社の社務所を兼ねていた巨星塔の自宅の一角を「一畳庵」と名付け、1950年8月から52年2月にかけて通算1年3カ月を過ごした。 

書簡は40年代前後から64年までのもので、巨星塔の死後、家族が整理、保管していた。書簡の内容は多くが未解明だが、東洋城の人柄を知る上で貴重な資料となりそうだ。 

消印が東洋城の死の1週間前に押された手紙では、体調不良を報告。「服薬はしてゐるが 句作もあまりよくない」とつづる一方、「社の境内や森や 筧はかかってゐるか(中略)などと君達の庭先を 時々考えてゐる」としたため、神社で過ごした日々を懐かしむ様子がうかがえる。俳句の添削や近況報告、巨星塔の娘らに宛てた手紙もある。

(中略)

巨星塔の長女佐伯弥生さん(78)=東温市河之内=は「東洋城先生は人に俳句を教える際の厳しさとは逆に、非常に優しい人だったと聞いている。手紙やはがきは大切にしていきたい」と語った。(大津貴圭)』

話を書に戻します。Cさんから祖父の書を見たいと言われいたので、母親から戴いた祖父の短冊をお見せすることにしました。改めて、その短冊を見てみると私が生まれた時の句がありました。

命名 惟弘 「神の道 ひろめて匂え 寒ざくら」

祖父の本名は、佐伯惟揚(これあき)なので、私は惟弘(これひろ)と命名されました。しかし、惟という漢字が当時の当用漢字に無かったため、私の戸籍には、登録してから1週間後に✖️がついてしまいました。これで、私の人生が代わったのかもしれません。神道を「ひろむ」という使命を私は持って生まれたのに・・・・5人姉妹を持つ祖父にとっては、男子の孫がいかに嬉しかったことか・・・・弟が宮司になっているので、勘弁してください。

電子レンジを戴く

 

あじさいの杜鍼灸院開院、5周年を記念して、高校の野球部先輩から電子レンジを戴きました。これは、私が1人で食事を作っているのを見るに見かねてのことで、本当にありがたい事です。このような気遣いが出来る先輩を尊敬しています。

恥ずかしい事に、多くの人が当たり前に使っておられるだろう電子レンジを、私は、全く使ったことがないのです。やはり、電磁波の恐怖があるためと、あの箱に入れるだけで、なぜあったまるのか不思議だからです。そこで、なぜあったまるのか?という素朴な疑問から解決したいと思います。

『電子レンジは、電磁波の一種であるマイクロ波を活用して食品を温める、という仕組みで作られています。具体的には、食品にマイクロ波を当てて、食品に含まれる水分を振動させ、振動により発する熱を利用するという流れで食品を温めるのがポイントです。食品自体を発熱させる分、食材の中まで温められます。

 

また、マイクロ波は食器・タッパーに使われている陶器・プラスチック・紙をすり抜けるため、容器に入った食材も中までしっかりと温められるのが強みです。』

とありました。よく分かりませんが水が振動の熱で蒸発するようです。次に電磁波の恐怖に対してです。

『WHOは、電磁波と病気との因果関係を否定しています。日本では「電気設備に関する技術基準を定める省令」にて国際的なガイドライン値を規制値として導入されています。国際的なガイドライン値以下であれば、何時間浴びても人体への影響はないとしています。

 

電子レンジのマイクロ波は庫内に照射されるため、外に強い電磁波が漏れることはありません。また、電子レンジのドアを開けると同時に、マイクロ波も停止する安全設計になっています。それでも心配な人は、電子レンジのスタートボタンを押したら1mほど離れると安心です。

食品の栄養素は残る

電子レンジの使用に限らず、加熱調理によって食品中のビタミン量は失われます。ビタミンCは水に溶け出しやすく、加熱により壊れやすい栄養素です。しかし、電子レンジなら短時間で加熱できる分ビタミンCが残る割合が高く、水に流出することもありません。

 

つまり電子レンジの電磁波によって、食品が有害物質に変化することはありません。容器のプラスチックが食品に溶け出ると不安な人は、陶器を使用すると安心です。』

とあり、あまり信用していないWHOが、「電磁波と病気との因果関係を否定しています」と言っているので、1m程離れることにします。現在は、メス猫モモが1番心地よい場所として、いつもここで休んでいます。暑い夏には、冷んやりと気持ちいいのでしょうね!

メス猫モモが、動物病院に

再び発情期を迎えたモモ、夜中も「にゃあ、にゃあ」とうるさく辛そうなので、以前横隔膜ヘルニア手術を受けた病院に連れて行きました。来週の水曜日、不妊手術を受けるための検査と、手術後の経過を見てもらうため、レントゲン写真を撮ると、再びヘルニアが出来ていました。ヘルニアとは、

 

『横隔膜ヘルニアは先天性の場合もありますが、多くの場合ネコちゃんが交通事故等によって強い衝撃を受けることなどで起こります。衝撃を受けることによって体の中で腹部と胸部を隔ていている横隔膜が破れ、腹部の臓器がその穴から胸の内部へ押し出されてしまうことを横隔膜ヘルニアといいます。ヘルニアとは、もともと穴のあいていないところが裂けたりすることによって、そこから穴の内側にあった別の組織ががはみ出すことを意味します。』

とあります。松山市繁華街の高島屋駐車場で、ビルとビルの間にうずくまっていたモモは、車にぶつかりヘルニアになったのだと思います。それで、いまだに警戒心が強く、逃げ足が早いのは頷(うなず)けます。また、2~3か月前から、腹部の異常を感じていたので、病院行くタイミングは、良かったようです。不妊+ヘルニアの合併手術になります。

幸運を祈っています❣️

お前は、何したいんぞ

昨夜は、大学時代のクラスメート2人と私で、Lineによる飲み会をしました。彫塑科で共に学びましたが、3人とも彫刻を制作していません。それぞれが好きな道を歩んでいます。7人いたクラスメートの内、彫刻家として生きたのは1人ですから、割合としては多い方かもしれません。ただ、あの自由な空間時間を体験した我々は、皆んな好き勝手な人生を送っているようです。

私が芸術系の大学に進んだ理由は、父親の一言からです。父親は中学校の美術教師で「美術の才」を見抜く力はあったのだと思います。私にはその「才」が少しあったようです。そのため、私が中学生の時、

「ヒロムは、高校生になったら2年からは、美術部に入って美術大学を目指したらええわい。」

と言われ続けていたのです。そこで、1年間は柔道部に身を置いて・・・2年生から、美術部に入るという計画でした。ところが、エネルギーの有り余っている高校生で、美術部は無理でした。しかも、野球をやりたい中学校時代に野球が出来ず、剣道部に嫌々入っていた身としては・・・不完全燃焼。

1年の2学期からは柔道部を辞め、野球部に入り美術部のことは、頭から全くなくなりました。そんな私が法政大学経営学部に入学・・・・・そこで、学ぶ事に興味なし、6月に退学。勘の鋭い父親は、私の行動を読んでいたようです・・・私は、愛媛に呼び戻され、

「お前は、何したいんぞ・・・・」

「分からん。」

「・・・何ぞ・・・芸術でもするかと思った。」

という会話から、一気に芸術の道を歩むといういい加減人生。そのため、やはりいい加減なことしか出来ませんでした・・・・・・しかし、素敵な仲間が出来た大学時代に、心から感謝しています。父ちゃんありがとうございます。