骨髄造血の矛盾

図1

自然医学総合研究所所長の大沼史郎先生の著書「がんの盲点」をの1部を掲載します。医学書、医学関係の教科書で、当たり前に載っている骨髄造血説を何一つ疑うことなく、150年以上も信じている医学界・・・・これで本当にいいのでしょうか?じっくりとお読みください。

『ノイマンとピッツオゼロの過ち

骨髄造血説を世界中に広めた最初の研究発表は、1866年にノイマンとピッツオゼロが、鳥類を餓死させて解体し、その骨髄液中に赤い血液があったと言う文献です。以来この文献が世界中に広まり、常識となったのですが、実は、この文献には、重大な過ちがあります。

骨髄造血説の誤りその1

骨髄造血説の誤りその1は、鳥類(ハトと鶏)と哺乳類の違いを無視して発表した点にあります。鳥類と哺乳類では構造が全く異なります。鳥類は、危険にさらされた時、一瞬にして飛び立つことができるように、骨細胞が小さく骨髄液も少量です。安全な場所を求めて着地して、すぐに餌を取ることができるように作られています。容量の少ない骨髄には骨髄液だけではなく、赤血球など直接動力源となる血液細胞も大量に詰まっています。しかし、哺乳類の構造は全く違います。

骨髄造血説の誤りその2 

骨髄造血説の誤りその2は、骨髄はエネルギーの貯蔵庫で、骨髄液は、脂肪代謝の貴重なエネルギーであると言うことです。哺乳類は危険にさらされても鳥のように飛ぶことができません。究極は敵と戦うことになるか、逃げ隠れして敵が去るのを待つしかありません。そのために哺乳類の骨髄液は、鳥類に比べて大量になければなりません。その理由は、骨髄液は、純度の高いガソリンのような資質で、脂肪代謝の貴重なエネルギー源だからです。つまり、何時間も隠れて餌を取ることができない状態でも、簡単に餓死しないように骨髄液として大量のエネルギーを蓄えているのです。

図1参照

図1の左端鶏の骨髄液を画像で確認したものです。右は牛の骨髄液中の状態です。赤血球の存在は、鳥の手羽の骨髄にはたくさん見られましたが、右の牛の骨髄液中にはほとんど見られませんでした。鳥類と哺乳類ではこれほど異なっているのです。』

馬鹿げた事実(骨髄造血説)を皆んな信じきっています。哺乳類の骨髄は純度の高いガソリンのような資質で、赤血球はほとんど存在しないのです。こんなところで、血液が作られる訳がありません。

大沼四廊先生の師匠、森下敬一先生は脊柱の骨髄から赤血球が作られていない実験もされています。それなのに、世の中では認められていません。こんな状況で正しい治療など出来る訳がありません。

医者は博物学者であるべき

私は、山元式新頭鍼療法(YNSA)を学び実践して3年。気づいたのは創始者、山元勝敏先生の偉大さです。鍼だけで難病を治しておられます・・・150万人もの患者さんの治療をされておられます。私は67才で、難病の患者さんを治すまでには至っておりません。このままYNSAだけやっていても年齢的な限界があると感じ、血液の浄化と血流を良くする治療法を身につけようと、名古屋の大沼四廊先生のセミナーに参加するようになりました。

そこで知ったのが、大沼先生の師匠、森下敬一先生です。森下敬一先生の血液研究こそ、現代医学に最も必要とされているように思います。そこで、改めて森下敬一先生の生い立ち、生き方をWikipedia から紹介いたします。

『両親は、神奈川県津久井郡藤野町(現・相模原市緑区)出身。

父は医師で、敬一の幼少時は、当時日本の統治下にあった朝鮮において病院を運営していた[3]

尋常高等小学校卒業と同時に、敬一は父から奈良県の天理中学校(現・天理高等学校)への入学を言い渡される。理由は、日本の内地でドイツ語を学べる数少ない中学校で、両親の住居に最も近かったためだろうという。

敬一は「青天の霹靂だった」と言いつつも、この全寮制の5年間の教育が、自身の人格形成に大きく影響したと述べている。

天理第二中学名簿 昭和20年卒業

在籍した天理第二中学校は全寮制の男子校で、学校生活は軍隊生活以上に厳しいスパルタ教育だった。教授陣は極めて優秀であったが、厳しい教育システムゆえに1年生から2年生に上がるときには、脱走や自殺などで半減するのが常だった。しかし、敬一はのちに、天理中学のスパルタ教育が自分を変えたと言い、「男は若いうちに一度は集団生活の中で、厳しい規律を体験するべき」と折に触れては述べていた[3]。

戦後、両親が引き上げて来て故郷の藤野に移り住む。当時の藤野は無医村で、父は農業をしながら患者を診るという半農半医を行い、敬一はそこから大学へ通った。

学生時代はあまり勉強するほうではなかったと言うが、研究室に入ってからはがむしゃらに突き進み、約20年の研究室時代には医学だけでなく、そこに隣接する地質学、生物学など、生命に関わるあらゆる分野を掘り下げていった[3]。

のちに森下は、自然医学の臨床活動において、「医師は博物学者であるべき」と述べている。医学は人間を対象とする学問であり、その生命現象はまさに小宇宙であって、物理化学、生物学はもちろん、環境や歴史、意識の問題と、目に見えない世界をも含めて総合的に捉えなければ、正しい方向性が見出せない[4]。

医療というものは、基礎理論の上に臨床が成り立つという体系でなくてはならない。医学と医療が別物だという現代の風潮は不勉強から来る誤解であって、若いうちに進化論的な発想から土台を築き上げて臨床を行わなければ、「葦の髄から天井を覗く」というような狭い視野となり、医療がバラバラになってしまう。こうした懸念は、近年の代替医療に対しても同様に抱いていた[5]。』

現在の医療は、専門分野に分かれて宇宙としてのカラダを見ていません。そうのようになってはいけない「医師は博物学者であるべき」と常に心がけて真実を探求されたのだと思います。

音がした

私が鍼灸師になる以前、操体法でカラダの歪みを取ることをしていました。その時は、動きの操法と皮膚に軽く触れるだけの操法を併用してやっていました。現在では、鍼灸治療が主流になっていますが、山元式新頭鍼療法(YNSA)の治療点を指で軽く触れるだけで治すことも始めました。

鍼灸治療に抵抗を感じる人や、ストレスで疲れすぎたカラダの患者さんには、有効です。

前回にもご紹介した70才代の女性患者Aさんの続報になります。前回はオデコの治療点に軽く中指を置くだけで、黒い雲が首に湧いて来て、ゆっくり登頂部まで上ると出ていき肩が軽くなりました。今回も肩こりが気になるそうです。ベッドで仰向けになっていただき、足揉みができる位置まで、ベッドをあげます。まずは、足、指を揉む操法でゆっくりしてもらいます。Aさんの特徴は、常にカラダが緊張していることです。特に指先にその状態が出ています。足指を揉んでんいくと多くの患者さんは、足の力が抜け緩んでくるのですが、Aさんは緊張したままです。それでも気持ち良い」とおっしゃっています。

次に、後頭部へ両手のヒラを回し、水をすくうような感じでただ、じっとする操法。

「どうですか?」

「足に水が流れて始めた。」

前回同様、足に水が流れる感覚が生まれました。足指を揉んだ時に感じる緊張感を水が流れる感覚でゆるめているのかも知れません。いつも間にか、肩のコリが無くなっていました。

「どこか気になるところありますか?」

「やっぱり、左の膝が気になる。」

慢性的な膝痛を抱えるAさんに、足に見つけた治療点へ右中指を軽く触れる操法を始めました。すると、

「膝の筋が緩んできた。」

触れている右中指の先端から、何となくカックンと緩んだ感じがありました。

「あれ?音がした。」

私も音を感じました。こういうことは、良くあります。どうやらAさんには指先を触れる操法が合っている様に思います。最後に足揉みをして終了となりました。

ロクムシ

9月3日にHOP株式会社の皆様が、実家を訪ねてくださいました。幼い頃から、近所の友達と遊びほうけた場所を、見て体感していただくのは、嬉しいものです。案内しながら、走馬灯のように幼い記憶が蘇(よみがえ)ってきました。

今の子供達が味わえなかった、自然との戯れ・・・・ただそれだけでした。お宮とお寺(隣り合わせになっています)で、夕暮れまで遊び続ける毎日。どこにも行く必要がありませんでした。この2カ所とその間を流れる小川が最高の遊び場所。時に、鎮守の杜に駆け上がることもありました。雨に日は、お宮の畳間で相撲を取ることができました。最高の贅沢は、御神木のクスノキ。これは、洞になっており、横に空いた入口から入り、内部をよじ登り木の上まで行くことが出来ました。当時最も流行っていたのは「ロクムシ」。

野球の道具なしバージョンで、ボールは軟式テニスボール(確か10円)でそれをワンバウンドで投げ、手をグーにして打つのです。フライになったボールは手の平
に当てると、打者アウト。またゴロになったボールを取って相手にぶつけるとアウト。6回ホームベースを踏む(1人で6点取る)と、全員(アウトになって試合に参加出来なかった人も)がもう一度打つことが出来る・・・初期化することが出来るので、最後まで残ってチームメートを助けた人が英雄になれるのです。

夕方になり、ボールが見えにくくなっても、遊び続け、親父が、

「ひろむ、ご飯じゃ、帰って来い。」

「うん、分かった・・・・帰るけん。」

と返事をしても遊び続けたのです。しばらくして、再び父親が

「何しよんぞ、早よ帰って来んか・・・皆んなもやめて帰れよ。」

で、泣く泣く遊びをやめる日々でした。全てに感謝です。

土壌エネルギー

森下敬一先生が、膨大な時間とお金を掛けて長寿の研究をされ、行き着いた結論を以下に述べられています。

『土壌の生命エネルギーなどということは、それまで全く思いもよらなかった。ただひたすら長寿元素を見つけてやろうと、一生懸命に行っては帰り元素分析を繰り返し、やっと判ったことは、元素ではなくエネルギーだということ。土壌のエネルギー、野菜のエネルギー、それを食べた人間がまた土に戻って生命サイクルを回す。だから、人間があちらこちらに移動したらダメになる。生命サイクルが回っているところで、その一部品として人間がそこに誕生する。すべての生命のサイクルが一体となって、大きく循環している中の一分子として人間が存在する場合においてのみ、人間の天寿である150歳というのが与えられるのだ。

現代の科学や医学が、見えるものだけが実在し、見えないものは存在しないという、ひとつの仮設の上に成り立ったところにそもそも誤りがある。特に生命科学においては、見えるものはほんの氷山の一角であって、水面下の見えないものが大部分だということを前提にして研究を進めるべきである。むしろ本質的な問題は、見えない大部分の側にあり、目に見える氷山の一角だけを研究するのでは行き詰まるのは当然であろう。

コンロン山脈の麓に、森下が長寿の調査で4、5回訪問したホータンという町がある。地元の人たちは、コンロンの山の奥に西王母(せいおうぼ)という350歳くらいの婦人が住んでいると固く信じている。彼女は、手のひらに鳥が運んでくれる量の食べ物しか食べないという。この話は、色々な示唆に富む話であって、手のひらに載る程度の食べ物だけで生きているというのは、腸の造血は殆ど営んでいない。その代わり、宇宙エネルギーをとり込んで、それによって血液を造るという経絡造血が完璧に備わり生きているということだろう。

コンロン山脈の大量の雪解け水は、5月頃にタクラマカン砂漠に土石流のように地響きを鳴らしながら、もの凄い勢いで流れ込むという。そのときにホータンも通っていく。その水が、ありとあらゆるものを全部のみ込んで流れて来る様は、初めに流れて来る先頭の状態を頭にイメージして、中国では龍(ドラゴン)という仮想動物を描いたのではないかといわれるほどである。ホータンのコンロン山脈からの水を調べると、生命エネルギーが猛烈に高い。長寿者が住んでいるところは、やはり違っていると感じさせられる[5]。

ユーラシア大陸を見たときに、大陸の中央部は厳しい自然環境に囲まれ、西洋文明があまり入って来ない。西洋文明はユーラシア大陸辺縁の平野部にあり、文明は大陸の周辺から浸食していく。

いわゆる西洋文明は生態系を破壊する一方通行の文明であり、反生命文明といえる。したがって、欧米の文明があるところに「真の意味の長寿(真正長寿)」は存在しない(平均寿命は「疑似長寿」)。それは、ヨーロッパ、アメリカだけでなく、日本も同様である[9]。』

土壌のエネルギー、コンロン山脈からタクラマカン砂漠までの雪溶け水のエネルギーが、龍の如くエネルギーを運び込む。やはり、龍は存在するようです。日本全体が、龍の形をしており私が生まれた河之内が、やはり龍の形をして地元には雨滝(あまたき)という龍神が住むとされる渓谷があります。干ばつで水が無くなった際の最後の砦(とりで)が、この雨滝。重信川(しげのぶがわ)の河口にある松前町から、海水を桶に入れ頭に乗せた「おたたさん」という女性が、この雨滝まで運び、海水を雨滝に投入。すると、怒った龍が天に舞い上がり、雨をもたらすのです。このような伝説のある河之内では、坂本憲俊さんというお百姓さんが、お米の品評会国際部門で2年連続金賞を獲得されました。坂本さんの絶え間ない研究心、努力はもちろんですが、河之内にある土壌がエネルギーを蓄えている事を証明していると思います。

中学生まで、河之内で暮らしそのエネルギーをいただいたことに感謝いたします。

長寿郷

森下敬一先生は、長寿研究のため、30年間近く50回も調査団を派遣しています。これは、貴重な研究です。西洋医学の悪しき一面が横行している日本医学界。もはや、聴診器で患者さんのカラダさえ診ることをしなくなっています(ここ数十年医者にかかった事がないので、実体は分かりませんが、多くの人々が言っているので)。カラダを診ないでパソコンを見るなんて・・・治療と言えるのでしょうか?西洋医学の限界を知った欧米では、統合医療が進んでいるそうです。当たり前に鍼治療が行われています。

いま一度、森下敬一先生の研究から多くを学びましょう。森下敬一先生は後継者を作りませんでした。しかし、研究結果は書物として残しておられます。これは、人類の宝です。もう古本屋でしか、見つかりません・・・何とかして見つけ出したいものです。

『大学の研究室時代から患者の相談を受け、玄米菜食で多くの患者が改善するのを見てきた森下は、お茶の水クリニックでガンをはじめとする慢性病・難病の患者たちが治癒していくことに対し、その裏付けを取りたいと考えるようになった。森下が実践する自然医食は世界的長寿郷の食形態と矛盾しないはずだと考え、カスピ海と黒海に挟まれたコーカサス山脈の南に位置するグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの3共和国から長寿の調査を始めた。昭和45(1970)年当時、グルジア共和国が世界一の長寿郷だといわれていたためである[9]。

Yノート9:森下博士 研究半生を語る(生命母体は時間である)

コーカサス山脈、パミール高原周辺を中心に、1975年から冬を除いて年に2、3回ずつ毎年出かけて調査を行うが、同じ場所であっても5年置きくらいに何度も行く必要がある。なぜなら、生命母体というのは時間であるから、一定の間隔で縦の時系列で見なければ、本当の長寿の調査にはなり得ない。1回だけの調査を100ヶ国回ったといっても何の意味も無いのである。

1970年代には、シラリ・ムスリモフ、メジードガアガイエフなど150歳はザラにいた。それが、1980年代は140歳、1990年代は130歳と10歳ずつ下がってきて、いま(2004年)は120歳になっている。

当初は、長寿郷の水や食べ物や色々なものを日本に持ち帰り、長寿因子を見つけてやろうと野心に燃えていた。ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム・・・など39項目の元素分析を、ありとあらゆるものを調べ続けたが、それは無かった。元素ではない。

1回の調査団は7、8人から10人、1,000万円ほど掛かったときもあるし、平均して500万円ほどで、50回近く調査に出掛けている。30年近くも掛け長寿の調査を重ねて判ったことは、長寿者というのは殆ど生まれた土地を離れない。それから、自分の家の近くに畑を作り完全な自給自足の生活が多い。金銭で物を買うという発想が無く、買うとしてもスーパーマーケットまで行くのに1‐2日掛かるようなところだから、食べたいものは自分で作る以外にない。

結局、彼らは気がついていなのだけれども、土壌の生命エネルギーを自分たちが栽培した農作物に移行させ、それを、そこに住んでいる一家が食べている。そして、それらがまた土に戻る、という生命サイクルが循環している。土壌の命、植物の命、動物の命、そしてまた土壌へ戻る。このサイクルが循環しているということが、長寿の条件だということを森下は教えられた。』

森下敬一先生、桜沢氏と出会う

 

昭和30年代にニジマスや鶏の白血病を完治させていた森下敬一先生は、桜沢如一氏と出会い、助言をいただきました。その経緯を3回に渡って掲載します。この出会いが長寿研究を加速することになります。

『大学研究室時代の昭和31‐32(1956 - 1957)年ころ、当時「日本が生んだ昭和の怪物」と噂されていた桜沢如一に興味をもち、そのグループの集まりに参加した。

森下は自己紹介を兼ねて研究内容を話したところ、桜沢は「それは歴史的な考え方だ。日本から世界に向けて発信されなければならない、ユニークで革新的な真理だ」と言い、その言葉を聞いた森下は、逆に「この人は凄い人だ」と思った。

森下の腸造血説が初めて新聞に採り上げられたのは昭和32(1957)年5月で、桜沢が記事を目にしたかどうかは微妙なタイミングで、これまで森下の話を理解できる者は殆どいなかったからである[5]。

桜沢は、昭和30年代初期から東京光雲閣において例会を開いており、日本の新しい時代を創ろうというメンバーが集まって熱気にあふれていた。例会には、毎回そうそうたる知識人が集まり、森下は足しげく参加するようになる。そこには、西洋医学を学んだ医師で参加する者は、森下以外に全くいなかった。

当時、森下が座間近くの養鱒所で、自身の研究を基に考えた餌でニジマスの白血病を完治させ、次いで鶏の白血病を完治させて、鶏の血液の状態がどんどん変わっていくことを例会で話した。その数日後に桜沢から電話が入り、夫妻で何度も研究所を訪れるようになった。

鶏の白血病完治について桜沢は「勝因は、ある特定の条件でなく総合的な結果だろう」と述べ、土を調べるよう助言する。森下は使用した腐葉土を調べ、1年がかりで2種類の結晶物質を抽出し、黒い結晶は白血球を減らし、白い結晶は白血球を増やすことを突き止めて、それぞれの化学構造を明らかにした上で桜沢に提出した[8]。』

森下敬一先生が、土を調べることで環境の重要さに気づき始めるようになって行かれます。次回は思いがけないような、展開をご報告します。

 

3年ぶりの患者さん

3年ぶりに来院された70才代の男性患者Cさん、再来院から2回目 の治療となります。側屈すると右臀部から膝にかけて痛みが走ります。しかし、ゴルフスウイングのように捻(ひね)る動きでは痛みが出ません。昨日は、ゴルフを楽しんでおらたそうです。最近の治療では、畳部屋で骨盤調整と、左鎖骨の調整を最初にするようにしています。ただし、Cさんだけは、左鎖骨の調整をしないようにしています。前回の調整で、反対側の右肩辺りに痛みが生じたからです。理由はよくわかりませんが、かなりの痛みだったようなので、やめました。

治療を終えて、時間を置いた後、その痛みの理由を私なりに推測してみました。Cさんは、普段ガニ股歩きをしてます。そのため、畳部屋で仰向けになると、極端に足先が外側に開きます。つまり、背中側の筋肉が縮む傾向があるように思います。臀部に痛みがあるのは、ガニ股で臀部が縮んでその延長で脊柱起立筋を始めとした、背部の筋肉に緊張があるのだと思います。

その結果、前回治療(左肩甲骨付近に硬式野球ボール3個が当たるように、畳の上におき、患者さんは気持ちよさを味あう)では、左肩甲骨付近が緩んだぶん、右側が縮んで痛みが生じたのかも知れません。これは、あくまで推測なのではっきり言えませんが、今後ともCさんのガニ股と背中側、肩甲骨辺りの関係を調べてみようと思います。いつものように、頭に頭に10本の置鍼をした後、右臀部の痛みを聞くと、

「・・・まだ、お尻のほうに痛みがありますね・・・・太ももの外側の痛みは無くなっています。」

「そしたら、お灸をしましょうか?」

ということで、見つけた足の治療点にお灸をすることにしました。

「このお灸は、紫雲膏をたっぷり塗ったあと、モグサを乗せて火をつけるので、痛くないです・・・・どうですか?」

「全然痛くない。」

痛くないお灸を6壮した後、

「どうですか?」

「あれ?痛くない(右臀部)・・・・凄いな!」

「結構効くでしょ?・・・・ここへ、せんねん灸をすれば、いいんですよ・・・せんねん灸は、ちょっと高いから、紫雲膏とモグサ買ってやった方が、お得ではありますけど・・・」

「そうじゃね、紫雲膏とモグサを帰りに買います・・・・あれ、今度は左のお尻が痛くなった。」

「あああ・・・元々、左にも痛みがあったんですよ、右の痛みが無くなったんで、感じるようになったんですね。」

そこで、右足の治療点にお灸を3壮。

「どうですか?」

「・・・・・痛ない!」

ということで、本日の治療は終了となりました。

限界集落

 

東京の大親友が、仕事仲間3人と松山に来られて、3日目の昨日は、私の実家をご案内しました。まず、父親の実家である川上神社に行きました。この神社は道後平野の扇状地の要(かなめ)に位置するところにあります。そのため、松山市の見張りが出来る個所のように思います。

そして、母親の実家であり私が生まれ育った惣河内神社、隣りには金毘羅さん。松山市から20kmも離れた山間地にもかかわらず、立派な神社とお寺です。ここは、高知と松山を繋ぐ宿場でもあったので、江戸時代には随分栄えていたようです。しかし、今や*限界集落というレッテルがついています。

私は、惣河内神社の長男に生まれたにもかかわらず、地域を出て弟に宮司として、頑張ってもらい、後ろめたい気持ちはあるのですが、私でなくしっかり者の弟が後継ぎをして、正解だと思っています。私で出来る範囲の応援をしていくつもりです。

東京から来られた4人は、神社、お寺、近くにある渓谷の霊気、冷気、マイナスイオンをたっぷり感じていただいたと思います。この奥には、夏目漱石、正岡子規が訪れた白猪の滝という雄壮な滝もあり、ちょっとした穴場です。そのうち、弟を中心として「限界集落からの逆襲」があると思います。乞うご期待!

*限界集落(げんかいしゅうらく)とは、人口の50%以上が65歳以上で、農業用水や森林、道路の維持管理、冠婚葬祭などの共同生活を維持することが限界に近づきつつある集落のことである。

2015年の国土交通省の調査では、今後10年以内に消滅する恐れがあると予測される集落は570あり、いずれ消滅する恐れがあるとみられる集落と合わせると、過疎地域全体の4.8%(3,614集落)になる。

患者さんからの提案

鍼灸院を経営していて感じるのは、「鍼は痛いし、お灸は熱いので苦手」という感覚の人が多いという事です。確かに私の使用している鍼は、直径0.25mmで一般に使用されている1番鍼が0.16mmなので、刺入時は痛いことが多いのです。ただ、最近始めたお灸は、世界で最初に麻酔手術を行った華岡青洲の考案した紫雲膏をたっぷり皮膚にのせてモグサに火をつけるので、熱くありません。それでも効果があります。また、私は頭に鍼を刺しますが、刺した後は気持ち良さがあり、即効性があるので、一度体験するとほとんどの人が好きになります(金属アレルギーの方は、無理です)。しかし、それでも敷居が高いようで、1日の来院数は、4人弱です・・・何とか生活出来る程度です。そこで、患者さんからある提案がありました。

「先生、5分無料で中学生を休ませてあげたら、絶対いいですよ!」

確かに、スマホやタブレットばかり見て、カラダも歪んでいる中学生に門戸を開くのは、高い敷居を低く出来るチャンスかも知れません。そこで、写真のように、

「スマホ疲れのアタマと歪んだカラダを畳の上で心地よく正しましょう 5分間無料」

とキャッチフレーズを考え、下絵(字?)を作りました。津田中学校の生徒の通り道なので、読んで興味を持ってくれると良いのですが・・・・アイデアを出してくださった患者さんは、まずは身近なことで解決する事、それが色々な展開を生み出すとおっしゃっていました。9月から学期が始まるので、どういう展開になっていくか興味あります。