最近のモモ(メス猫・生後6ヶ月)

相変わらずキャリーボックスで昼間は過ごすことが、多いのですが、ちょくちょく私の反応を探るため、おすまし姿でゆっくり歩いて・・・今日は、猫タワーまで上って行きました。どうやら、夜中は運動会をしでかしているようです。テレビの電源を切るは、イナバチャルチュールをガチガチに噛み切っていつの間にか、全てかじりかじりの小ちゃい穴ボコボコ。

患者さんから頂いた「だしの素」の棒状プラスチック袋(私は使わないので、大きな箱に一杯入っています)を、かじりかじり。これは、塩分が多いので、患者さんには申し訳ないのですが、捨てることにしました。それでも、モモにとっては、少しずつ居心地がいい空間になりつつあるようです。

天井から聞こえてくるセキセイインコのキー、ボーの鳴き声は、ずいぶん気になるようで、いつでも襲(おそ)える体勢で見上げています。あのときの目は野性動物になっています。

私が近づくと「にゃ~」となくようになって来ました。エサやりとトイレ掃除をまめにして、モモに認められるよう下僕しています。

あと半年は掛かるでしょう・・・普通にお付き合いできるまで・・・

人間主義的経営

読書嫌いの私が、2日間で読み終え、じわじわとした感動に浸っています。

人間主義的経営 ブルネロ・クチネリ 翻訳 岩崎春夫

 

この本は、古代、中世からの叡智、遺産を未来に託し、生き生きとした文化、経済、教育、芸術を生み出した地方再生の羅針盤です。しかも、私と同年代のブルネロ・クチネリ氏の自叙伝から始まる田舎生活は、私の幼少期とも重なり、大家族の人間模様、生き様が美しく描かれ、共感しっぱなしでした。

ブルネロ・クチネリは、1978年、色鮮やかなカシミヤセーターを製造する小さな会社を立ち上げ、事業の目的を、倫理的にも経済的にも人間の尊厳を追及することと定めました。1985年ソロメオという小さな村の廃墟となっていた城を買い取り、「人間のための資本主義」を実現する場所とし、ブルネロ・クチネリ社の本社にします。

そして、ソロメオ村の豊かな暮らしを取り戻すため、村を修復し、文化、芸術、人々の交流を促進するために、劇場、図書館、公園などの施設を整備しました。

詳しくは、本を購入してゆっくりと読んでいくことをお勧めします。それにしても、翻訳が何と素晴らしい事か!!

大学時代の親友・・・・岩崎春夫氏は、同じ野球部で体育専門学群所属ではなく、比較文化を専攻。私は芸術専門学群だったこともあり、お互い変わり者同士。野球練習後は、彼の部屋が飲み屋状態でした。すると、比較文化の仲間が遊びに来て・・・・と、お陰で色々な人との交流が出来ました・・・皆んなどうしているんだろう・・・

岩崎春夫氏は、超エリート商社マンでトップに上り詰め、現在はHOP株式会社を設立。「美しく強い会社を創る」を目標に、ベンチャー企業や世代交代期を迎えた企業を対象とする人と組織の基礎作りを行う他、人事と経営の本質を学ぶ学校「人事の寺子屋」を運営しています。

下記は、岩崎春夫氏の訳者あとがきの一説です。

ビジネスの世界で働くことで世の中を今より良いものに変えていきたい。そう考える有意の経営者、企業で働く人々、そしてこれから社会に出る若者たちが、この本を読んでビジネスと経営について学び、ひとつでもふたつでも良い会社、美しい会社を作り出していって頂けたら、これほど嬉しいことはありません。そんな一つひとつの小さな会社の活動が、世界を覆う歪を治癒し、社会をもう一度良い方向に変えていく流れにつなげていくと確信します。

東雲能

 

松山城近くにある東雲神社で、能があり、雨にもめげず初めて見学しました。私の祖母がこの神社の近くで生まれ育ったので、幼い頃から能を見ていました。その影響で晩年まで、能舞い、謡は続けていたのをよく覚えています。能を見ながら、祖母の舞いがオーバーラップして懐かしい時間がすぎて行きました。主催の東雲能実行委員会の責任者が、私の高校3年の時の同級生ということもあって、見なければならないという指名、運命を感じたのです。

実を言うと、東雲神社と能は、日本における能文化に大いなる貢献をしているのです。下記にインターネットからの引用文を記載します。

『明治維新に際し、藩主の所蔵する能面、能装束が競売に出されることになりました。このとき、高浜虚子の父、池内信夫と正岡子規のおじ歌原良七、藤野漸が保存のために奔走しています。能道具は東雲神社に奉納されることとなりました。現在、この衣装や能面は「東雲さんのお能」で見ることが出来ます。県指定の文化財。能面は室町時代から江戸時代の中期、狂言面や衣装は桃山時代から江戸時代中期のものが多いようです。能面153面、狂言面42面、能衣装110点が保存されています。

(中略)

また、高浜虚子や河東碧梧桐、内藤鳴雪、藤野漸ら、俳句の巨頭たちは能の名手でもあったといいます。高浜虚子のお兄さんである池内信嘉(1858~1934)は能の功労者。明治35年(1902)上京し、雑誌「能楽」を発刊し、後継者の育成につとめています。後に、東京音楽大学の教授となり、日本能楽の再建に大きく貢献しています。能楽の重鎮、金子亀五郎(喜多流)、川崎九淵(太鼓)、宝生弥一(ワキ)たちの松山出身者を指導・庇護したことでも知られています。』

かつては、松山は、能王国とも呼ばれていたそうです。俳句はもとより能も盛んであった松山は、文化水準が高いようです。また、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」油屋は道後温泉をモデルでしたが、あのお面をかぶったおばけは、やっぱり能の演者がモデルだと確信しました。動きといい、無表情な面は迫力があるのです。やはり、実物を見て感じることが多いことに気づきました。

東海大相模優勝

東海大相模高校VS明豊高校の選抜野球選手権決勝。行き詰まる熱戦でしたが、東海大相模高校の9回サヨナラ勝ち3対2で終了しました。コロナ禍でいつもの練習が出来ない中、両チームともノーエラーとは、本当に素晴らしい!

この1年間は、スポーツ観戦があまり出来ない中、久々にいいものを見ることが出来ました。ただ、応援していた明豊高校が敗れたのは、残念でした。昭和42年吉良投手擁(よう)する津久見高校が優勝して以来の優勝を期待していたのですが・・・・気が沈みます。

そういう時、外に出て草引きをすると気が晴れてきます。でも、部屋に戻ると元に戻ります・・・・こういう時は、ベースギターの練習。結構いい感じです・・・・もう少し良くしようと思うと、畳に寝っ転がって、カラダとの対話。治療の合間には、しょっちゅうこの対話を行います。具体的には、YouTubeで色々紹介していますので、興味ある方はご覧ください。

東海大のユニフォームを見ると、大学時代の苦い思い出が蘇(よみがえ)って来ます。私が野球部に在籍していた頃は、東京教育大から筑波大へと移行する時期。1〜2年時が東京教育大、3〜4年時が筑波大でした。東海大が所属している首都大学リーグに我々も所属しており、1部にいる時は東海大と戦います。

筑波大3年の時、戦った記憶があります。当時のエースピッチャーは、のちに大洋ホエールズのエースとして活躍した遠藤一彦さんですが、我々との試合では、投げてくれませんでした。それでも、3投手が3回ずつ投げて、ノーヒットノーランを喫しました。力の差をつくづく感じました。そして、巨人監督の原辰徳さんが打席に立った時のオーラの凄さに守っていて、

『お願いだから、ここ(3塁)には、打たんといてくれ!』

と怖気(おじけ)づいた事を、鮮明に覚えています。3塁まで来た原辰徳さんのカッコ良さに敵ながら惚れ惚れしてしまいました・・・・これでは、野球になりません。ただ、一流選手がどれほど凄いのかを知っただけでも、ありがたい事だと思います。

最高の音響空間は、無垢材で!

結構大きいキーボードが加わり、当院は鍼灸院→音楽練習場状態。当院の前に、狭い道路があり離合がスレスレ。その道路を挟んで、広い駐車場があるため結構大きな音をだしても、近所迷惑になりません。また、2階には私の生活空間があるだけなので、ここの住人(3階のビルで3世帯)にも迷惑をかけることもありません。また、当院は障子とガラス戸の二重ドアなので、かなり防音出来ます。それだけではなく、当院の無垢材(むくざい)空間は、くつろいだ癒しの空間としても、良いようです。インターネットからの引用文を紹介します。

 

『名器と呼ばれる楽器や有名な劇場、コンサートホールなど、音の響きに気を使うものや場所には無垢の木が多く用いられています。 それは、高音・中音・低音をバランスよく吸収して、ほどよい残響音を残すという、無垢の木ならではの特性を利用したもの。つまり、 音を聴きやすく、まろやかに、自然体に演出しようとするためです。

一般の家庭でも無垢の木の内装材にすれば、その効果を十分に体験できます。くつろいだ雰囲気での家族との会話やステレオなども 心地よく聞こえ、音に対するストレスを和らげてくれます。大切なのは、吸音と反射の自然なバランス。コンクリートや金属のような 固い材料は音を反射しやすく、一度でた音が壁や天井にぶつかってはね返りながらいつまでも残り、小さな音でも残響となって”うるさい” と感じる音になります。』

なるほど!

モモ(メス猫生後6ヶ月)のその後

 

昼間、モモは相変わらず居心地のいい、キャリーボックスから出ることなく過ごしているようです。私は仕事の関係上、一階の治療室にいることの方が多いので、昼間の様子をしっかり把握してはいないのですが、キャリーボックスでゆっくりしていると思います。夜、私が寝ようと思っている頃、突然キャリーボックスから出てきて、おすまし姿でぴょんぴょん歩いて、直ぐに戻るという奇妙な行動が1度ありました。

「ねえ、ねえ私を見てよ・・・・可愛いでしょ?」

って、言っていました。多分、私が寝たあと、部屋を冒険し遊んでいるのだと思います。

今朝は、モモトイレを掃除して、新しい砂を入れてあげると、早速、ウンチをしてくれました。ウンチを私の前でするということは、ある程度信頼しているという表現行動なのだと、解釈しています。少し前進したように思います。

まあ焦らず、ボチボチです!

あじさいの杜音楽練習場

本日は、あじさいの杜鍼灸院が、「あじさいの杜音楽練習場」となりました。YouTube を制作し残った時間で練習。とにかく、全くのど素人が突然始めたのですから、周りの方々は、大変だと思いますが、みんな優しいので楽しくやれています。天井、壁、床全て松と杉材なので、音の響きが良いそうです。まるで、音楽練習のために出来たような空間とも、言えなくもないです。

開院当初は、患者着に着替えてもらうための部屋が、徐々に音楽関係の機材で埋もれていきそうです。次回は、キーボードが入ります・・・・そのうち、数名集めてミニコンサートが出来るかもしれません。これは、全く予期せぬ方向、だから人生は楽しいのです。

私のギターの師匠が、あの寺内タケシのお弟子さん。そこで、寺内タケシのYouTubeをよく見るのですが、寺内タケシが5才の時、お母さんの三味線の音に負けないように、エレキギターを作ったという事実が衝撃的でした。エレキギターの元祖が、寺内タケシであることさえ全く知りませんでした。ということは、寺内タケシがビートルズ、ベンチャーズに影響を与えたのです。

ビートルズの日本公演の前座を務めたのが、ドリフターズであることは知られていますが、それを設定したのは、寺内タケシだったのです。と言うことは、私は寺内タケシの孫弟子!

明日から、しっかり練習しようと思います。

ベースギター

 

患者さんから頂いた野菜とお惣菜。私が、野菜好きで冬場は全く日が当たらない畑持ちなのを、知っている患者さんは、週に1~3回野菜を届けてくれます。ご主人が定年退職後、無農薬菜園をされており、お二人では食べ切れないので、頂いています。本当にありがたいことです。

時に、私が酒好きなのをご存知なので、お酒をいただくこともあります。何と幸せなことか!

私は、今年で67才になるのですが、縁(えん)あって何故かベースギターを弾き始めました・・・・音楽は全く苦手・・・・というか・・・やってない・・・ところが、少し出来るようになると、面白くなってきました。脳の活性化にもいいと思って、少しずつ練習しています。

治療室が隣近所から離れているので、エレキギターの練習をしても、迷惑をかけることはありません。バンドのメンバーが当院に集合して「あじさいの杜音楽練習場」となっても問題ありません。私は初心者ですが、誰しも初心者体験します。その体験を楽しくやれば、継続出来ると思います。幸い、私のギターの師匠は、エレキギターを考案した寺内タケシさんのお弟子さんです。楽しくやってます❣️

白石の鼻巨石群

白石の鼻巨石群の龍を見てきました。幸い、良い天気に恵まれて5つの大きな石の隙間から、沈む夕陽の光がオレンジ色の龍となり海面を踊っていました。古代人が時を計(はか)る巨大モニュメントをどの様にして作り上げたのか・・・・・全く想像できません。

古代には、我々の想像を絶する高度な文明があったのかもしれません。そして、龍が存在していたのかもしれません。龍にまつわる伝説は、世界各国にありますが、私の実家がある東温市の雨滝(あまたき)という渓谷にも龍伝説があります。

龍は、誰の心にも存在する母なる海からの神の化身。人類が存在する以前に存在していた恐竜が絶滅することになった隕石(いんせき)に対する怨念が龍となってさまよっているのか・・・・

などと、想像に駆(か)られる日になりました。

先輩の差し入れ

 

 

高校時代の野球部先輩が、お酒を持って来院されました。私が1年生の時の3年生で、小さな大投手でした。県大会ベスト4までの立役者。私は、その時まだ柔道部に所属していたので、実際には、一緒に練習したことがなかったのに、随分お世話になっています。大学受験の時、部屋に泊めて頂いたり、東京を案内してもらったり・・・・そして、地元に帰ったら、母校松山東高校のOB会や、の・ボール野球に誘っていただいたり・・・・お世話になりっぱなしです。

今日は、「京ひな 一刀両断」という純米大吟醸をいただきました。仕事が終わったので、これから呑んでみます・・・・・・これは、美味い‼️マッタリ、サラッとして上品・・・・これは、いけます‼️

昔の街並みが残っている内子町の「酒六酒造株式会社」が、製造元です。そこで、インターネットを調べてみました。

白壁と木蝋の町並みが、愛媛県屈指の観光地である内子町の中心部に位置しており、澄んだ空気と小田深山渓谷からの豊かな水の恵みを活かした酒造りをしています。内子町では古くから小規模ながらも酒造りが盛んで1920 年(大正 9 年)に地元8名の酒造家が集まり喜多酒造の名 で「京ひな」を醸造。1941年(昭和 16 年)に引き継いだ酒井繁一郎が、紡績業を興した父の酒井六十郎にあやかり 「酒六酒造」と社名を改め、今日に至ります。 商標「京ひな」は、京都の名僧がお酒を飲み、賞賛した日が「ひな祭り」であったことに由来しているそうです。

私の大好きな内子町、頑張っています❣️