高校時代の野球部先輩と「坊ちゃん劇場」へ「KANO〜1931 甲子園まで2000キロ〜」を見に行くため、本日は臨時休業。その後、母校・松山東高校が伊予高校と試合をするので東温高校グランドに応援観戦と、久々の休日を楽しみました。母校は、東温高校に5回コールド、伊予高校には8回コールドで2連勝。今回は、感動した「KANO〜1931 甲子園まで2000キロ〜」を書こうとしたのですが・・・・先輩が持ってこられた読売新聞の記事を紹介します。
『1889年、子規はボールとバットを持って帰省。その時、友人の弟だった河東碧梧桐に教えた。これが愛媛への野球伝来とされており、碧梧桐は「掌(てのひら)の裏へ突き抜けるような痛さ」と球を受けたときのことを書き残している。翌年には松山城近くでバッティングをしていた中学生たちのところへ子規が通りかかり、その場で手本を見せた。この時、生徒の中に高浜虚子がいた。碧梧桐も虚子も、後に子規門下の俳人になる。子規と2人を結びつけたのが野球だったのは不思議な縁だ。』
1890年に松山城でバッテングをしていた中学生が、私の大先輩にあたり、それから2年後の1892年に伊予尋常中学(松山中、松山東の全身)に球技同好会が誕生。ここから母校の野球部が歩み始めたのです。こんな素晴らしい歴史ある野球部に所属していたなどと、当時の私達は全く考えてもいませんでした。知っていたらもう少し強かったかも・・・2回戦で西条高校にノーヒットノーランをされなかったかも・・・・