1才になるかならないかのオス猫のチャルルは、我が家を別荘として悠々(ゆうゆう)と過ごして、2日目です。我が家が前回と少し違ったのは、2本の物干し竿に吊り下げた服の数です。となりの部屋に吊り下げていた服を全てもってきたのです。そのため、この畳部屋は大きなクロゼットともいえるでしょう。

チャルルが最も好きな場所が、部屋の隅(すみ)にある大きな戸棚の天辺。そこから見渡す風景には、私はいなくてたくさんの服が雲海(うんかい)のようになっているはずです。多分気持ちいいはず。私は普段、畳部屋(小さなビルの2階)にはおらず、1階の治療室にいるため、チャルルが部屋の王様。私がたまに帰って来て、白衣を物干し竿に掛けます。掛けた白衣を取ろうとすると、

「シャ~~~(オレのテリトリーに何してる!)」

と威嚇(いかく)が始まるのです。チャルルにとっては服の雲海もテリトリーですから、どの服に触れても威嚇(いかく)されます。こちらとしても、「主人はこっちじゃ」というオスのプライドがあるので、「ひとケンカ」。

次回は、服をとなりの部屋に大移動することにしましょう(*^ω^*)

のボール野球

清々しい風と時折の暑い日差しの中で、愛媛県立内子高校の創立100周年の記念事業として、内子高校野球部OB(尚武倶楽部)と松山東高校野球部OB(明教倶楽部)の「の・ボール野球」対抗試合が内子高校グラウンドで行われました。これは、私の高校時代の監督稲見達彦氏によって、正岡子規が松山中学(現松山東高校)に伝えた当時の野球を再現したのもです。バットもグラブもユニフォームもルールも当時のままです。

ルール:投手は、ソフトボールのように下手投げ。打者は、「ハイボール、フェアボール、ローボール」のうち1つを要求し、要求通りのボールがストライク。5ボール(要求以外の球道が5つ)で1塁に行けます。

フライは、直接取っても、ワンバウンドで取ってもアウト。ソフトボールのように離塁禁止(投手がボールを投げてから離塁できます)。

これだと、老若男女楽しく出来ます。これは、やっても、見ても、負けても、勝っても楽しいです。

ベース間は、通常の距離ですから、60才代には遠い、長い、つらいのです。足がからんで前に進まないのです・・・・見ていて滑稽(こっけい)だと思います・・・・笑いを誘うのです。

これは、全国に普及すべき愛らしいスポーツです。

今年は、徳島県立脇町高校との定期戦がコロナ禍のため中止となったのが残念です。来年に向けて、バッテイングを改良しないとダメです!来年の目標は、「打点を上げる」にします。

録画撮り

本日14時から、youtube用の録画撮りをしました。今回は、膝ウラのコリを自分で取る方法。4分44秒のゾロ目で撮り終えました。先週の2本撮りと合わせて3本を明日、8時45分から見れるように設定しました。早速、明日9時からの患者さんに、お知らせしようと思います。

まあ〜、ボチボチ無理せず作っていきます。今日は、ここまで。

https://www.youtube.com/channel/UCAwvpnfBuOxIODM-s0_iUYQ?view_as=subscriber

奥座敷と龍

東温市川内公民館大ホールで、「松山藩の奥座敷・河之内~眠れる龍が再び起きあがる!~」

という講演がありました。地方の宝を見直し、未来に生かすという非常にポジティブなもので、奥座敷と龍を河之内のキャッチフレーズにしたのは、見事でした。

講師は、惣河内神社宮司の佐伯敦氏。

誰も、河之内(私が生まれ育った地区)を松山の奥座敷と言ってませんでした。また、龍との関係を明確に5柱(5の龍)として発表したのも見事(河之内には、5つの龍がある)。これを軸に河之内を見つめ直し、世に知らせる。私も出来る限り手伝います。講演の冒頭に、祖父佐伯惟揚(これあき)の

「河之内景勝保存に就き村当局への要望書」を読み上げたのは、祖父に可愛がられた私にとって、胸を打ちました。その一部を紹介します。

「河之内は独り自然美を持って誇るに止まらずその中に古文化財を黙綴し和名の文人墨客の曽遊の事実があり地理歴史的の両面より検討するも一僻寒村として世にも稀なる景勝の地といはねばなりません。(中略)さらに昭和廿四年本県宇和島出身の俳人松根東洋城(明治廿八年日本芸術会員当選)は村内に渋柿同人分布ある関係上河之内に一畳庵を営み二年に亘り実に十五ヶ月滞在且暮河之内の景趣を賞味美し幾多の句や文を残して行った子規、漱石、東洋城いづれも我国俳壇の第一人者であれば河之内はまさに文人墨客曽遊の豪華版の地であります。」

正岡子規、夏目漱石、松根東洋城がこの片田舎に関係し、句を残しておられます。漱石に於いては、地元の滝に関して50句残しており、これらを句碑として滝の道中に設置する案には感銘しました。コロナ禍後、世の中は変わります。河之内がその先駆けになります。

没になった絵

明日(9月26日)、「松山藩の奥座敷・河之内~眠れる龍が再び起き上がる!~」という講演が、東温市川内公民館であります。佐伯敦宮司(私の弟)が行うのですが、元高校教師ですので、人前でのスピーチは、慣れたものだと思います。前回でも少し説明したのですが、「豫洲久米郡名越邑金比羅寺来由記」という漢文の資料出てきて、それを解読して河之内にある金比羅寺の新たな由来が、見つかったのです。河之内というのは、私が生まれ育った地区です。

その由来を、弟が噛み砕(くだ)いた文にし、私が絵を描いて紙芝居にしたのです。ですから、スピーチのどこかで、紙芝居があります。ただ、私は絵を提供しただけで、どの様に演出するかは、分かりません。幸い、明日は午後からヒマなので、私も参加するつもりです。自分の絵を見るのはチョット恥ずかしいのですが・・・・・見ている人の反応にも興味があるので・・・・チョット、ドキドキします。

明日のフェイスブックでは、その様子をお届けします!

下記は東温市のホームページからの引用です。

それから、リアル過ぎて没になった絵を載せます。

東温史談会

新型コロナウイルス感染症予防のため、中止しておりましたが、令和二年度最初の郷土史講座を次のとおり開催します。

なお、今回は、会場の人数制限(80名)の関係で、予約が必要となっております。参加を希望される方は、東温市立歴史民俗資料館(電話089ー964ー0701)まで、ご連絡ください。

 

日時:令和2年9月26日(土)

午後1時30分から午後3時まで

場所:東温市川内公民館 1階 大ホール

惣河内神社の佐伯敦宮司が、「松山藩の奥座敷・河之内~眠れる龍が再び起き上がる!~」と題して講演されます。ぜひお越しください。

You tube

今日は、You tubeの配信準備をしました。10月1日(木)から配信する予定です。山元式新頭鍼療法(YNSA)と操体法を組み合わせた自力自療の健康法を提供いたします。対象者は、私の患者さんです。患者さんに毎日出来る「動きの操法」を処方箋(しょほうせん)としてお渡ししたかったのですが、出来ないまま4年経ちました。しかし、やっとメドが立ちました。

患者さんには、「動きの操法」を指導したあとyou tube で確認してもらいたいのです。もちろん、これは公開されますので、同じ疾患の方は参考になります。

10月1日(木)からのYou tube お楽しみに❣️

豫洲久米郡名越邑金比羅寺

 

豫洲久米郡名越邑金比羅寺来由記

という漢語の文献が出てきたので、地元の漢学者が和語に訳し、惣河内神社宮司が、子供でも分かる言葉に置き換えて、紙芝居を作っています。それを、来週の26日にお披露目します。その絵をヒマな時(今週は、ヒマが多いのです・・・)に私が描いています。400年前に建立された金比羅寺の由来、エピソードが松山のお殿様まで巻き込んだ史実として描かれています。

お披露目前に、内容を詳しく喋れませんが、この話には惣河内神社の太鼓の音が誰も叩いていないのに聞こえて来て、「河之内の不思議太鼓」と呼ばれたとあります。惣池内神社は803年に創立されたと言われていますが、その横に金比羅寺は位置しております。地元では、この惣河内神社と金比羅寺をまとめて、「こんぴらさん」と呼び、「おみや」が惣河内神社、「おてら」が金比羅寺となっています。明治時代以前は、神仏混淆(しんぶつこんこう)という神道と仏教が融合された素晴らしい思想が1000年も続いていたのです。

その辺りのお話なのです・・・・・

温故知新を改めて感じています。イラストは、没(ボツ)になったものです。

9月26日にお披露目なのですが、詳しい情報後日もう一度紹介致します。

クスノキ のチップ

治療中、玄関前が何やら騒がしいので、覗(のぞ)いてみると、弟がクスノキのチップをドンゴロスに入れ、運んでいました。全部で15袋、相当な量です。ありがたい事です。それを駐車場に敷き詰めると・・・まだまだ埋まりませんでした。結構広い駐車場です。

クスノキは、近所の飯岡神社の境内から運び込んで、チェーンソーや卓上丸ノコで輪切りにし、愛媛県立美術館で6日間展示した後、実家まで運び、弟がチップにして再び、駐車場へ。

手作りの空間のため、作品の中にいるような感覚になります。そこに身を置いてボーッとしていると、4年半前に住んでいた東京世田谷の駐車場、道路等と比較している私がいました。

こんな贅沢な空間、東京では難しいだろう。地方にある何気ない素材が、大都会では貴重なモノとなる。今後ますます地方が地方の良さを再発見して、どんどん面白い事をやっていける。そんな、期待感が生まれてきました。

またふと、アメリカの公園を思い出しました・・・・アメリカの公園では、滑り台のまわりは必ずこのチップに囲まれて、子供の安全を考えています。これは、学ぶべきこと。地元の小学校から始めてみるのもいいかもしれません。

台風で期待していた雨がサッパリ、風だけでした。

ところが、今日は久々の雨。そこへ、竹を積んだ軽トラが、勢いよく駐車場に入ってきました。

「先生、竹持って来ました・・・・・・小降りじゃけん、今のうちにと思うて・・・・」

私は、予約の入れ忘れ!・・・と、一瞬ドキッとしたのですが、どうも雰囲気から違うと思い直しました。無農薬栽培を何十年とやっておられるAさんご夫婦の判断で、本日、竹を運んで下さいました。

「ありがとうございます!立派な竹!」

「竹は、切ったらいかん時期があるけん・・・・そんな時期に切ったら、春から秋になるまでにボロボロになってしまうけん。」

「本当ですよね・・・・・・・このナスどうしたらいいのか・・・分からないんです。」

「あのトマトを切ってしもたら、ノビノビ出来らい。」

と、奥さんが教えて来れました。考えてみると、水を余りやらない方がいいトマトと、水が好きなナスを一緒に植えていることが、間違い。踏ん切りがつきました、明日、トマトをバッサリ切り落とします。今年はナス4本しか食べていません。もう少し育ててみます。

「このカボチャはどうしたらええんですか?」

「カボチャはメシベにオシベをチョコチョコと受粉しちゃらないけん・・・・今咲いとるんは、全部雄花じゃけん・・・・だいたい、雄花と雌花が交互に咲くけん、ええ時期をみて交配してあげんといかんのよ。」

などと話しているうちに、雨足が激しくなって来たので、頂いた竹を運び、お二人は「先生、明日宜しくお願いします。」という言葉を残して、風のように去って行かれました。明日しっかり診させていただきます。

先生

私の祖父、祖母、父、母みんな先生でした。こんな環境で育つと、先生しか出来ない・・・というか、他の商売は無理と幼い頃から分かっていました。いずれは「先生」と呼ばれるはず・・・・

と、思っていました。どうせ、「先生」と呼ばれるんだったら、色々な事をやっておこうと思っていました。

その結果、全てが中途半端な生き方。しかし、納得しています。なぜなら今になってやっと「鍼(はり)の先生」として生きる覚悟が出来たから・・・・この年(現在、65才)になって、先生と呼ばれて違和感がなくなりました。

待合室に置いてある父親の小冊子「つぶやき」より、

妻が退職して婦人会副会長を1年しての感想で、「教員ほどボランティア活動に参加しない人はいないのではないでしょうか。やめてみて、教員時代の私が恥ずかしい。」と、私も鉄槌(かなづち)で頭をなぐられた思いでした。

これからです。