森下理論のカナメ

 

私の敬愛する森下敬一先生の食べ物、血液、身体に関するカナメが下記です。じっくりとお読みください。真実が述べられています。

『食べ物は人間の身体に入るとどうなるのでしょうか?森下自然医学の見方は次のとおりです。まず、食ベ物が腸の中で血液(赤血球)になります。そして、血液(赤血球)が身体の細胞になるのです。

身体の構造も、それに適した形状になっています。人間の身体は、断面で見ると左図のように食物層、血液層、体細胞層の3層構造になっています。

まず、最内側の中心に腸などの消化器があります。食物層です。食ベ物が口から食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門と通過して消化されていきます。その周りに、その消化物を運んで身体全体に届ける血液組織があって、それを体細胞が取り巻いていると言う構図です。

森下学説において重要なのは、その三層が連続していると言うことです。

まず食べ物が血になります。草食動物は草を食べるのですから、食ベ物を通過する腸の中は「緑の世界」です。肉食動物は肉を食べるのですが、その肉の大本は、草食動物が食べた草が原料ですから全く同じです。緑色の素はクロロフィル(葉緑素)です。しかし、その周りの血液層は「赤の世界」です。赤色の素はヘモグロビンです。

つまり、腸の中は葉緑素の世界なのに、腸の壁を隔(へだ)てるだけで血色素の世界になるのです。腸の壁に何らかの機能があるに違いありません。血液生理学を教室で学んでいた若い頃の私にとって、この葉緑素と血液の関係解明は懸案事項でした。

この両者は緑と赤で全く別物のようですが、科学的構造は非常に似通っています。違うのは、ポルフィリン核という化学式に含まれる中心金属元素が「葉緑素ではマグネシウム」で「血液(赤血球)では鉄」といった違いがあるだけです。そこで、食べ物として摂り込まれたクロロフィルの「マグネシウム」が、両層を隔てている腸壁を通り抜ける過程で「鉄」に変わってヘモグロビンになるのだろうと私は考えました。

血液(赤血球)がどうして誕生するかは非常に重要な問題です。その血液(赤血球)が三層の中心の消化管から血液層へ移っていくときに作られると言うのが、森下自然医学における造血理論のカナメです。そのことをよく理解しておいてください。

それから、血液が体細胞になります。血が融合化学されて肉になるということです。筋肉になったり、脳細胞になったりします。血液(赤血球)身体各部の、すべての組織細胞になっていきます。

すなわち、「食ベ物」→「血液」→「身体の細胞」へと発展して身体が作られていくと捉えます。だからこそ食ベ物は、体質だけでなく、人間の考え方や生活の質にまで影響すると考えられるのです。』

何を食べるかで、全てが決まるということです。食べ物がモネラという物質(今回は、それには触れていません)になり、小腸の絨毛を通り抜ける時、マグネシウムが鉄に置き換わることがカナメだと思います。

薬より凄いもの!

私の敬愛する森下敬一先生(血液研究の第一人者)の、健康で長生きするための10か条の最後に、「第10条日本の伝統食品は薬よりすごい」があります。その一説をご紹介します。

『忘れていけないのは、日本には味噌、醤油、漬物、納豆など伝統的な発酵食品があることです。これらの伝統食品は優れた腸内環境の整備力を持っており薬の毒素をも打ち消してくれます。特に良質の味噌は酵母による成長作用はもちろんのこと、アレルギー沈静化、血流改善、スタミナアップ、美肌などの効果があります。日本古来の発酵食品が日本人の生活に浸透していたのは、それだけの理由があったからなのです。若い人たちが、外国発のファーストフードなどに憧れの気持ちを持ってしまうのはやむをえませんが、それが最近の若者の体質を弱くしています。もっと味噌汁を飲むべきです。』

森下敬一先生は、お茶の水クリニックで難病の患者さんをクスリを使わないで、食事療法のみで病気を根治されています。私の目指すところは、そこでもあります。山元式新頭鍼療法と食事療法と操体法を融合した療法が私の究極の治療です。少しずつ歩いて行こうと思います。

観葉植物に鍼

YNSA学会で山元美智子先生が、お父様の山元先生に関しておっしゃった言葉で印象的だったのが、

「熱しやすく冷めやすい父親の性格で、続けることが出来た趣味は、刺繍と野菜作りだけです。しかし、その趣味が治療に役だっているのです。刺繍で繊細な指先の感覚が養われ、野菜作りに関しては、鍼を野菜に刺して実験まで出来ました。」

というような内容のお話です。山元敏勝先生は、人生全てを治療にかけておられ、93才になられてもなお、新しい治療法を模索されておられます。素晴らしい人生を送られておられます。

私の人生・・・・迷走してやっと見つけたのが鍼灸師そして、60才過ぎてからの開業。何もかもが後手後手です。しかし、全てが無駄ではなかったように思います。美術系の大学を目指したのでデッサンはしっかり学びました。そのおかげで、頭に刺す治療点を見つけるデッサン力は自ずと出来ていたように感じます。また、木の木端を積み上げる作品を作っていたので、指先の感覚が鋭くなっていたようにも感じます・・・・ただ150万人もの患者さんを診ておられる山元勝敏先生の感覚とは、雲泥の差であるのは、いうまでもありません!山元敏勝先生の触診、治療は神様の域です。

長い道のりですが、焦らず怠けずボチボチ歩きます・・・我が鍼灸院にある観葉植物に、鍼を刺してみました。危機感を感じた観葉植物がスクスク育ちますように!

YNSA学会

去年11月20日にYNSA学会があり、その録画をやっと見ることが出来ました。そこで、山元敏勝先生の娘さん、山元美智子先生が、山元先生の生い立ちから現在に至るまでのお話をしてくださいました。ニューヨークでのヘレンさんとの運命的な出会いがあり、結婚。全くドイツ語が喋れない山元先生は、ドイツでの就労ビザがおりません。やっと就労ビザがおり、ケルン大学病院で働くことが出来るようになりましたが、子供さんが2人出来、将来は病院を開業したいと思っていた山元先生。帰国を考えるようになったのですが、ヘレンさんの「日本に行きましょう!」の一言で全て決まりました。

やはり、女性の力は偉大です。ヘレンさんは、言葉も文化も全く違う日本での生活は大変だったと思います。病院を開業して、プロの看護師として厳しく日本の看護師に指導したため、18名もの看護師が反旗を翻して仕事に来なくなったことがありました。その時は全ての仕事をヘレンさんが一人でこなしたのです。それを見ていた患者さんが、

「ヘレンさんが君達の仕事を全てしていたんだぞ、しかも笑顔で!君たちは、恥ずかしくないのか!」

という言葉を看護師に投げかけました。それで、改心した看護師たちは、山元先生のもとに行き、許しをこいます。すると、山元先生から、

「ヘレンは、もっと厳しく指導するがそれでも構わないならば、働きなさい。」

という、お言葉がありました。山元先生ご夫婦の厳しいが愛に溢れる生き方を感じ、ウルウルとなったのです。夫婦で同じ道を助け合いながら歩くなんて、理想的な生き方です。その生き方を身近に見ていらっしゃった美智子先生が、YNSA学会の中心におられることは、本当にありがたいことです。

美智子先生の発表以外に諸先生方の発表があり、そのレベルの高さにちょっと後退りする私がいました。私は、出来れば今年、見つけた治療点を発表したいと思っているのですが、諸先生方のように発表できる自信が全くありません。自分一人では無理なため、その分野に長けた方のご指導を仰ぎながら、今から始めないと無理だと感じたのです・・・・ボチボチやって行きます。

あじさいクラブに新メンバー

(新年会で食べきった鯛のお頭)

今日は、「あじさいクラブ」の初練習。リードギターのヨッシャー、ドラムのヒラリ、キーボードのえんちゃん、ベースギターの私(ゴンちゃんと呼ばれています)に新メンバーが加わりました。

カッパちゃん(男性)。カッパちゃんはボーカルで英語、フランス語が堪能なので、マイウェイ、愛の讃歌などを歌ってもらうことになりました・・・博識なので、練習後の飲み会ではあらゆる世界を駆け巡る会話が飛び交うのです。

早速、3月26日砥部町にある里山房(ギャラリー)での演奏が決まりました。どんなになっていくのでしょう・・・鬼ヶ島退治に、いつの間にかキジやら猿やらがついて来たように・・・どこにも退治にいくのではないのですが・・・面白い人達が集まって来ています。

もう走り出しているので、どこまで走るか分かりませんがやってみます。今まで音楽をしたことの無い私にとって、全く未知の世界・・・だから、楽しいのでしょう。師匠のヨッシャーは、世界で5人しかいない寺内タケシさんの弟子。私のような初心者に、優しく指導してくれます。ありがたいことです。

いつか、坂本九ちゃんの上を「向いて歩こう」を演奏しながら歌いたいのです・・・これは、今年の目標!こんなちっぽけな目標こそ、大切!

明日は、患者さん2名!精一杯治療いたします!

一口

新年あけましておめでとうございます⛩

本年も、よろしくお願い申し上げます。

今年は、やりたいことが沢山あるのですが・・・言葉にしないで、ボチボチやって行こうと思います。筑波大ラグビー部、健闘空しく帝京大に敗れましたが、5点のワントライは素晴らしかった!一口と書いて、何と「いもあらい」と読む一口直貴選手(4年生)の得点です。一口選手は、兵庫県星陵高校出身ですが、京都に東一口という場所があり、京都で生活していると、時々出会う地名、「東一口」・・・懐かしく思ったのです。

『【一口(いもあらい)名前の由来】

古来から「ひとくち」「一口」「いもあらい」「芋洗」などと呼称・記されてきており、

それらが混合されて、「一口(いもあらい)」となったといわれる

<忌み祓い(いみはらい)>

巨椋池の西岸の湿地帯であったため、洪水が頻繁に起き、そのために疫病が流行った

その災いを身を清め払うという意味の「忌み祓い(いみはらい)」から「いもあらい」に訛ったものといわれる

<稲荷神社>

庖瘡平癒の神社として信仰を集めていた村の入口にあった神社

庖瘡(ほうそう)(天然痘)・痘痕(とうこん)のことを「イモ」とも称され、「アライ」とは、払う(治す)を意味することから

「いもあらい神社」と称されるようになったといわれる

<村への出入口>

村が、北・東・南の三方を巨椋池によって囲まれており、村への出入口は、西の一か所のみだったことから

「一口」と記されるようになったといわれる

「山城名勝志(1711年(皇紀2371)正徳元年)には、

三方が沼(巨椋池)であって、入口が、その地のみの一か所であったことから「一口」と書かれたと記されている

「山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記(1828年(皇紀2488)文政11年)」の「両一口村名の初」の項には

「往古ハ両一口村淀魚の市ニ有りし時、三方ハぬまニて一方より入口あり、これに依り「ひとくち村」と記ス、

天正17年4月 太閤御城を築キたまう前ニ大地の高キ嶋え立のき、此時より西と東え別れ「西一口村」、「東一口村 」と申す也」と記されている』

と、インターネットでは出ていました。一口直貴選手は、この地名とゆかりがあるのではないかと、推測したのです。

さて、明日も楽しく仕事に励みます!

今日は大晦日

今日は大晦日。これから、正月3ケ日までは、フェイスブックをお休みします。ネコのモモちゃんと暮れから正月は一緒に生活します。いつもは、1階の鍼灸院で時間を過ごしているのですが、明日からの3日間は、2階で寝酒正月!

箱根駅伝、筑波大学対帝京大学の大学ラブビー準決勝!と、楽しみがあるのです。筑波大学のラグビーは、実に複雑。体育専門学群グループと、医学専門学群グループと、それ以外のグループに分かれているのです。この3つのグループの合同チームが筑波大ラグビー部なのです。ちなみに、昨年まで現役の日本代表だった福岡堅樹選手は、筑波大のそれ以外のグループからの招集でした。

3グループに分けざるを得なかった理由は、練習時間帯。勉学優先の筑波大は練習開始時間が、学群ごとに違うため、必然的にこのようになったようです。ちなみに、愛媛県のラグビー名門高校の新田高校監督は、筑波大のキャプテンで、日本代表にもなった亀岡先生です。「筑波大学ラグビー部の総会に出席しても、知らない部員がいた!」とおっしゃっておられました。その部員をまとめるのですから、亀岡先生のキャプテンシーは、凄かったと思います。

そんな苦労を跳ね除け、ベスト4まで残った筑波大の応援、よろしくお願いします!

父親の手のひら

地元に帰って開業し、7年目になります。今日は、故郷に帰って良かったと思える日でした。友人の紹介で70才代の女性患者Cさんが来院。鍼治療の経験もなく、「鍼は痛いけん、いや。」という方でした。

「ほやけど、そんなんでようここに来たね~。」

「・・・・まあ、そうですけど・・・・あの~、お父さんは久米中(学校)の校長先生を、されておられたでしょう?」

「ああああ、確か久米中が最後の中学校じゃった・・・かな?」

「私の妹の娘が久米中じゃって、それはそれは良い校長先生じゃいうて、おりました。」

「・・・・ああ、確かに花校長と言われて・・・・ある日、親父が忘れ物をしたので、それを届けに行っても、校長先生がおらず・・・・麦わら帽子をかぶって水撒(ま)いとる人んとこ行って、気づいたら、親父さんじゃった・・・・そんなことがありました。」

「偉いお人は、偉ぶらんけん。」

「・・・・今でも、清明会という親父の勉強会を続けてやっている先生のグループがあるというのは、聞いています。」

などと、ついつい親父さんのことを、偉ぶって言ってしまう私です・・・反省。

今でも親の後光に頼っている私ですが、本当に良い父親に育てていただいたと思います。

「何で、先生は鍼灸をしようと思われたんですか?」

「実は、私が小学生のころ、夕方になるといつも神経性胃炎になって腹痛を感じていたんです。それを親父さんが、指圧で治してくれていたんです。で、その感覚をカラダが覚えているので、親父さんにも、毎日指圧をやっていたんです・・・・そしたら、ひろむ(私の名)、指圧が上手いのう・・・と、褒めてもらい、指圧師だったら生活できると、子供心に思っていたんです。」

実際、我が家は祖父母から始まり、両親が学校の教員。こんな家系で商売は出来ない・・・先生しかなれんと子供心に感じていても、どこかに逃げ道が・・・・それは、指圧師か?・・・結局、指圧師も先生と呼ばれるんじゃけん、どうせ先生と呼ばれるんじゃったら、色々やって指圧師になったらええ・・・・そんな、人生計画をどこかでしていたようです。結局、鍼灸師になって先生と呼ばれ7年。もがきあがいても、父親の手のひらを一所懸命走っていただけだったようです・・・・・・ありがとう、父ちゃん!

鍼灸の現状

さて、ギャラリーキャメルKの第二部、私の健康セミナー。

私自身、17年ぶりに、1週間以上風邪をひき、素晴らしい体験をしたので、この体験も含めて話をしようと思っていた部分もあったのですが、山元式新頭鍼療法(YNSA)の紹介をすることにしました。

とにかく、日本の医療界では、鍼灸に関しての偏見があまりにもひどい現状があるので、その打破が必要です。中国で作られ、日本へ仏教と共に入って来た鍼灸治療が、江戸時代には日本独自の治療法として確立し、漢方薬と併用しながら皇室の医師としてその技術を認められていました。しかし、江戸末期~明治時代ではオランダ医学・西洋医学の流入により下火になりますが、民間の間では変わらぬ強い支持を得ます。 昭和以降、伝統的な療術の復旧を望む動きから、はり師、灸師はそれぞれ国家資格となり、専門性の高い施術を提供する専門職として活動しています。

現在は、西洋医学による医療が一般的ですが、伝統的な療術を見直す動きと世界的な鍼灸効果への評価、鍼灸術は西洋医学との併用、代替医療としての可能性が注目されています。 西洋医学に鍼灸や漢方を加える「統合医療」を推進する働きがあり、統合医療の導入により、病気の超早期発見や予防、健康増進および医療費削減という効果が期待されています。 このことからも、鍼灸は健康増進や予防の観点での効果を高く評価されているといえるでしょう。

世界的に西洋医学が浸透している一方で、今各国で伝統的な療術が見直されています。 そのなかで、世界各国の医療関係者がすぐれた伝統医療として挙げているのが鍼灸です。 生体へ鍼灸が及ぼすメカニズムとその研究成果は数多く発表されており、鍼に鎮痛作用があることは医学的な関心を呼んでいます。

また、高価な医療機器・技術の導入が難しい発展途上国でも容易に用いることができる施術としてWHOも注目しており、鍼灸は有力な補完代替療法とされています。

と、世界の医療潮流は、補完代替医療としての鍼灸の見直しなのです。このことを、一般の方々に分かりやすく伝える方法を鍼灸師が作らなければなりません。昨日、私が紹介したYNSAは、非常に優れた治療法ですが、日本での普及にてこずっています。これは、細分化した日本医療の体制が迷路をさまよい、人を人として診ていない現状があるからです。未だに薬で人は治ると信じている医療人が多い現状で、鍼灸という優れた代替医療を、まるで迷信だと信じている人々の多いこと・・・・その現実を徹底的に解説して、一人でも多く人々の理解を得る講演をすべし!

と感じました。

初演奏

昨日、ギャラリーキャメルKというところで、あじさいクラブの初演奏を行いました。なぜ、初演奏というか・・・・それは、やっとメンバーが固定出来たからです。本格的に音楽をやっているのは、リードギターのヨッシャーのみ。ヨッシャーは、世界で5人しかいない寺内タケシさんの弟子の1人、ギター歴50年。ドラムはヨッシャーの奥さんヒラリ、ドラム歴3~4年。私は、楽譜読めず、ベース音を弾くことしか出来ない音楽歴1年。えんちゃんに至っては、キーボード歴半年、ボーカル歴半年(ボイストレーニングは数年しているようです・・)。

こんな60才以上の4人が9曲演奏・・・・ところが、ハプニングの連続。まず、100%間違うことがない「シェルブールの雨傘」で一瞬「空白」。何と、ベースの私が・・・・途中、開き直って修正。続いて、「マイウェイ」開き直ってベースは持ち直すも、ちょっと、ギクシャク。続いて加山雄三の「君といつまでも」私のセリフ「死ぬまで君を離さないぞ  いいだろう?」が受けすぎ・・・・リードギターが迷走で突っ走る・・・・これは、治らん・・・・覚悟を決めた頃、「転調から」とリードギターのヨッシャーの声、何とか調整し、終了・・・終わり良ければ、全て良し。

ここまでさらけ出すと開き直るもので、「スタンドバイミー」ベースの私が間違うと、台無しになるコンサート・・・『ベースで支えるぞ!』と意を決してスタート。ヨッシャーのボーカル調子良し!リードギターのアドリブ調子良し、えんちゃんのキーボードも良し・・・で乗り切りました。続いて「ホワイトクリスマス」「赤鼻のトナカイ」これは半年前から練習するも、まあまあの出来。

「Snow White」と「君に輝きを」は、ヨッシャーのオリジナルソング・・・突然、ヨッシャーが阪神大震災の話を始めます。当時、松下電器で営業マンをしていたヨッシャーは、真夜中まで働き、寝床について熟睡の最中、震度7(当時はそれ以上の計測が出来なかったようで、実際にはその倍近くあったようです)を体験。1~2m空中を飛び、その間に大きな真空管のテレビがヨッシャーの寝ていた頭の位置に落ち、ヨッシャーは、死ぬことを脱がれました・・・突然、涙ぐむヨッシャー、数人の同僚を無くしているはずです・・・この話は、酒の席で笑いながら聞くことがあっても、人前でしかもリアルに聞くのは初めてでした。

この話の後の演奏は、上手く行きました。最後はゆずの「栄光の架け橋」。終わり良ければ全て良しで演奏終了となりました。