肩の痛みが無くなる

 

3週間前に作ったYouTubeあまり、見てもらってないのですが、肩こり、肩痛に効果があります。60才代の男性患者Aさんが来院。最近は畳部屋で両脚の長さを調整して、その後、左鎖骨の圧痛点を確かめて、その圧痛を取る操法をしています。Aさんは、6月7月と肩に何かが乗り付いたような痛みがあったのですが、8月になって痛みが無くなりました。

Aさんが仰向けになっていると、突然、左肩に痛みが出てきました。そこで、左の腰にある圧痛点に硬式ボールが当たるように畳に起き、両膝を立ててもらいました。山元式新頭鍼療法(YNSA)では、ヘソを中心に膝の治療点は同側の肘、足首の治療点は同側の手首と考えられており、肩ならば同側の臀部、腰にあたります。そのため、Aさんの左腰に硬式ボールを置いたのです。

次に、後頭部にラムダ縫合というへの字の形をした縫合に肩の治療点があります。中央部から2 cmほど左に左肩の治療点があります。ここに置鍼すれば治療になるのですが、硬式ボールを使ったセルフケアでできます。ラムダ縫合のAさんに仰向きになってもらい、両膝を立ててもらいます。つま先をそらすと連動してアゴが上がります。ラムダ縫合の中央部から2cmほど左の治療点に、硬式ボールの縫い目合わせると、治療になります。

「Aさん、肩の状態どうですか?」

「・・・・痛くないですね・・・・ここ(左肩)を摘んで押すと・・・痛かったんですが、今は痛くないですね。」

「結構効くでしょう・・・・これを覚えておくと便利ですよ。」

という事で、Aさんには、納得してもらいました。興味ある方は、YouTubeをご覧ください。

仙台育英優勝おめでとう!

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宮城県代表の仙台育英高校が、東北勢初めて優勝!

東北とはあまり縁がない私ですが、嬉しくなりました。大学時代の先輩、後輩には東北出身の野球メンバーが数多くいたので、その方々が喜んでこんいるイメージが浮かぶと、本当に嬉しくなります。私がバットを短く持って、当てるバッチングだけしかしていなったのを見た秋田県出身の先輩が、

「佐伯、バッチングは、・・・キン◯マを、はさむ事。」

この一言で、私の野球人生がガラリと変わったのです。下半身の捻りを上手くバットに伝えると打球は飛んでいくのです。この一言を体得すると、もうホームランしか狙わないバッターに変身してしまったのです。どんなことがあっても、私はバッターボックスで構えるとホームランしか狙っていませんでした。170cm70kgの思い切りのいいバッターになってしまったのです。しかも、直球を「1、2の3」で待っている単純なバッター。変化球をヒットにする事はありませんでした。

それで打ったホームランは2本だけ。打撃に関しての記憶は断片的で、高校の打撃はほぼ覚えていません。大学でもいい加減なもので、2本のホームとランと、1本の三塁打を覚えているくらいですが、1番の記憶は、なんと言っても3年の春。ベーブルースがホームランを打った静岡県にある草薙球場での合宿のこと。

選抜高校野球準優勝投手という、鳴り物入りの初見投手が我がチームに入って来た時、大学野球の力を見せつけようと私が最初にバッチングゲージに入ったのです。その日は霧に覆われ湿気が多く、しかも練習用のボールとなると、ボロボロで重いのです。こんなボールは芯に当たらないと飛びません。公式試合で使用するボールは新しくて軽いので、真芯に当たっても手ごたえが無いのです。ところが、ボロボロのボールでしかも湿気がいっぱいの物を真芯で捉えると、物凄い手ごたえがあるのです。その時は、その感覚。1年生の初見がピッチングマシンにボロボロボールを入れて、

「ボールいきます。」

「ガキーン!」

とんでもなく重い感覚がバットを振り抜いた後まで、残りました。その重い感覚が一直線で外野席の芝まで(つまり、ホームラン)繋がっていったのです。「ドスン」という音を残して。しかも、2打席連続で・・・・これには、あの初見も頭を抱えて、

「スゲエーーーー」

とまでは覚えいるのですが、それ以降の私の成績は下がる一方・・・でも、こんな事を書く事が出来たのは、仙台育英高校のおかげです。・・・仙台育英高校おめでとうございます。ありがとうございます!

骨盤調整と手当て

(この場所は治療点ではありません)

 

体調管理で月に一回来院されている70才代の男性患者Cさん。今日は、あまり悪いところがありません。

「そうしたら、今日は足揉みをしましょう。」

と言うことになり、畳部屋に移動してもらいます。仰向けになったCさんはやはり、右足が1.5cmほど縮んでいます。この場合、足揉みをするだけでカラダがゆるみ、骨盤が元の位置に戻ります。15~20分足揉みをすると、左右差が無くなりました。山元式新頭鍼療法(YNSA)に於いても、上腕診で脳と脊柱の状態を診断治療する基礎治療を行います。これで、骨盤が元に戻るのです。同じ様に足揉みで骨盤が元に戻り基礎治療出来たことになります。

次に、仰向けになったCさんの後頭部を軽く私の両手のひらに乗せて、ゆっくりしてもらいます。しばらくすると、

「先生、左の腕(上腕)が痛くなって来たんですけど・・・」

「分かりました・・・・そうしたら、ここ(耳とこめかみの中間にある圧痛点)に痛いところありますか?」

とCさんに上腕の治療点に軽く右手中指の先を軽く触れる操法。これで、少し上腕が緩んだようです。ここまで来たら、私が見つけて勝手に治療点としている足のツボに軽くふれることにしました。

「先生、ゆるんで来て、気持ちいいです。」

やはり、この治療点は間違いないようです。これをどのように証明するといいのかが、難しいのです。

となりのトトロ

夏休み恒例「となりのトトロ」のテレビ番組が昨日ありました。しばらく観ていないので、とても新鮮に観ることが出来ました。主人公の一人、次女のメイちゃんが、ほぼ私と同じ世代です。私は今年で68才になるので、60数年前の時代背景になります。大学教授のお父さんが、田舎(多分、茨城県)に家族でお引越し。三輪トラックで舗装されていない道を走るというシーンは、心に響きます。私が幼い頃の道路は、赤土の凸凹道でした。

典型的な日本家屋に、戦後のアメリカからの影響で、洋間を作り足した家屋で繰り広げられる物語。私には2つの故郷が重なって見えてきました。1つは、実家の茅葺民家で11才まで過ごした体験。実家は神社の社務所だったので、遊び場は、神社。その御神木は樹齢1000年近い(正確にはよく分かりません)ウラジロガシ。このウラジロガシには洞があり、小さな子供達は、中に入ることができ、しかも中からよじ登って鳥居の天辺を眺めることが出来たのです。この遊びを毎日していたのです・・・なんと言う凄い体験なんでしょう。丁度、メイちゃんが大きなクスノキの洞に入って、トトロと出会うシーンと重なるのです。

2つめは、メイちゃんがトトロからもらったドングリを庭先に植えたシーン。メイちゃんがお父さんと姉のサツキを誘って夜に、何度も何度も両手を上げて皆んなで尻もちをつくシーン。すると、みるみるうちに、芽が出て一気に大木へと成長するのです。

私は長女がメイちゃんと同い年になる頃、京都の山奥、美山町というところで生活していました。トトロの映画と同じくらいの田舎でした。茅葺き屋根の民家で小さな庭に、柿の木が植わっていました。そこにドングリを植え、毎晩長女(メイちゃんと同じ帽子をかぶって)と私と元妻で何度も何度も両手を上げて皆んなで尻もちをつくシーンを再現していました・・・・今となっては、本当に貴重な体験でした。

「三子の魂百までも」といいます。我が子3人すっかりアメリカ人になってアメリカで生活していますが、美山町の生活が少なからず影響していると信じています。

生き物の本質

今回も森下敬一先生の研究掲載をおこないます。

『我々の体の中で、細胞が最も代謝されているのは肝臓である。肝臓は猛烈なスピードで代謝されているにも拘らず、肝細胞に分裂能力は無い。

Yノート7:森下博士 研究半生を語る(餓死寸前の動物の細胞は細胞質が抜けて血球数を保つ)

森下は永年に亘り顕微鏡を覗いて観察し続け、ついには右目の網膜が焼けるほどで、「右目の視力は殆ど無い」とよく述べていた。それほど観察しても、肝細胞が分裂するのを観たことが無く、また他者が提示した細胞分裂写真も見たことが無い。

肝臓は明らかに血球から形成されているし、絶食したり病気になった場合の肝細胞は赤血球または白血球に姿を変えて、肝細胞自体は細胞の膜だけが残って中はがらんどうである。

森下は、ウサギをはじめ色々な動物を何十匹も餓死させて実験した。食べ物を与えないでいると、最後は自分の毛を食べる。だから腸の中に、自分の体毛がたくさん詰まっている。そのような状態で、腸壁の組織、肝臓の組織、その他も全身的に何回も調べたが、細胞の中は空っぽになっていた。核が一部残ったりすることはあるが、細胞質は全部抜けてしまい、細胞膜だけはしっかり残る。

細胞質は何のために、何処へ行ったのか。これは、明らかに細胞質が赤血球に解体したということを動物実験で観察できる。餓死する1‐2日前に動物を調べると、細胞の周りには、細胞から出てきた細胞質が変化したと思われる赤血球・白血球がある。それによって、血液中の赤血球数は一定数を保ち続けようとしているのだ。断食では腸で造血できないために、まず脂肪組織を血液に戻し、骨髄脂肪も赤血球に戻っていく。その赤血球の逆分化の状態を、飢餓状態のハトやニワトリでマンチェスター病院の病理学研究者らが観察し、骨髄造血説が主張されるに至ったのである。

テレビなどで癌細胞として放映されるHeLa細胞というのは、いわば分裂するように調教されているもので、森下の印象では、原虫か細胞かよく判らない丸い球体が、両側で逆回転をしてフワッと分かれるのを観たことがある。そのことを細胞分裂と言っているのかと思ってみるが、一般的に細胞分裂と考えられている現象は、どうもそれではないらしい。違うとすれば、森下は医学上の定理とされている細胞分裂(細胞は細胞から)という現象を観たことが無い[5]。』

上記の記載にある、

「断食では腸で造血できないために、まず脂肪組織を血液に戻し、骨髄脂肪も赤血球に戻っていく。その赤血球の逆分化の状態を、飢餓状態のハトやニワトリでマンチェスター病院の病理学研究者らが観察し、骨髄造血説が主張されるに至ったのである。」は、骨髄造血説が唱えられる非常に偏った現象時における特殊な赤血球の成り立ちを、あたかも常時、骨髄から赤血球が出来るとしたに過ぎないのです。大沼四廊先生がおっしゃるように、存在説があるだけで骨髄での造血説は、世の中には無いのです。また、飢餓状態で生命を保とうとして、必死で赤血球の量を一定にする活動が生き物の本質です。赤血球は酸素を運んでくれる最も大切な細胞だからです。そのため、必死に変化するのです。それが、生き物です。

モネラ

昨日に続き、森下敬一先生の研究をご紹介します。

森下先生は、医学生の時、オタマジャクシの心臓から摘出した血液に、立派な赤血球があることから、骨髄造血説が間違いであると確信します。なぜなら、オタマジャクシには手足がなく、骨髄がないからです。そして、直感的に血液は腸から出来ると思いました。まず、骨髄造血説を否定する実験をします。それを記載します。

『人間も含めて動物の骨髄組織は、重量的にみると約95%が手足の長管骨にある。長管骨に出入りする血管というのは、針の孔くらいが1ヶ所だけポツンと開いていて細い血管が1本通っているだけであり、骨髄組織を遮断することは難しくない。当初は結紮していたが、順天堂医院で外科だった医師が入室し電気メスで焼灼してスピーディーになった。

教室には常に10人ほどの研究員がおり、長管骨を遮断したあとの動物の赤血球数を調べたが、手術のストレスが残る1週間から10日を過ぎれば赤血球数はちゃんと元に戻り、長管骨を遮断しても事実上血液の量に増減が無いことを確認した。』

とあります。つまり、骨髄以外から赤血球が作られるという証明になります。実際、骨髄から針の太さの血管が通っていることだけで、血液を作る臓器ではないことが分かります。そこで、腸造血説に必要となる食べ物から作られるモネラという重要な物質についての記載があります。

『森下は、若いころから「自然界においては、すべてのものは動き変化していく」という考え方をもっていた。「細胞は細胞から」というのは、原因も結果も無いということになる。ある原因があって結果が生まれる。その結果がまた原因として次の結果を生み出す。そうした因果関係を明らかにしていくのが科学の使命であって、科学という以上は、ものごとの因果関係が説明できなければならない。同じものが続くというだけでは、原因も結果も無いということで、何も生まれてこないではないか。

食べ物が消化されてモネラになって、モネラから原始的な赤血球になり、更に高次元の体細胞に発展していく。

物質と生命の間には越えがたい溝があるわけだが、その溝に橋渡しをするものがモネラというもの。*オパーリンは、物質がだんだん変化して、生命の一歩手前の「コアセルベート」ができるというところまでは証明した。これは世界的に受け容れられている。*オパーリンはコアセルベートまでは観ているのに、その間が断層になっている。そこを埋められるのは、「モネラ」の概念しかない。

Yノート6:森下博士 研究半生を語る(モネラの考え方)

例えば、卵の黄身が孵化するとき、卵黄を構成している卵黄球というのはひとつの有機物質だと考えて良い。有精卵を数日ほど孵卵器の中に置いておくと、最初に卵の黄身の表面に赤い点々がたくさん出てくる。その部分だけを取り出して顕微鏡で観てみると、明らかに赤血球である。それは何処から出て来たのか。その赤血球が寄り集まったブロックが、互いに繋がり合って血管ができ上がる。その血管の一部が拍動し始めて、まず心臓の原型みたいなものができ、そのポンプのような力で血管の中を赤血球が効率的に輸送されていき、ヒヨコの全身がつくり上げられていく。最初は、卵黄球というブロックが集まった物質である卵黄しかないのに、何処から赤血球が出て来たのかということになる。だから、特殊な有機物から細胞ができ上がるということは判っている。

モネラというのは、ヘッケルというドイツの生物学者が、微生物の世界や動植物の世界を観て、モネラという存在を介して細胞が生まれてくると述べている。論文では、モネラから発展する色々な細胞の絵を描いているのだが、その大元になるのはモネラであるという考え方で、それは彼の顕微鏡的な観察である。

学説としては、赤血球から白血球、白血球から細胞、或いは、赤血球から直接様々な細胞へ、の両方がある。血液からそれぞれの細胞になるのは、組織細胞からの導引である。導引されてある組織に入ったものは、その細胞になる。例えば肝臓に導引されて、周りがすべて肝細胞なのに1個だけ腎細胞になるというわけにいかない。』

*オパーリンは1920年頃、生命の起源について自説の本質部分を発表している。当時、最初の生命については自家栄養的好気性細菌(遊離酸素を使って無機物を酸化することでエネルギーを得、これを利用して二酸化炭素を還元して有機物を合成し、増殖していく微生物)というのが定説となっていたが、彼はその説を批判し、「他家栄養的嫌気性細菌こそ最初の生命である」と植物学会で述べている。

今回はこれまでにしておきます。森下敬一先生を学ぶことで、大沼理論の概要が徐々に分かって来始めました。楽しくなってきました。

オタマジャクシ

腸造血説が生まれるエピソードを、Wikipediaからご紹介します。

『森下博士 研究半生を語る(腸造血説に至るきっかけ)

昭和22(1947)年、終戦後の食糧難の時代に、軍が池を遊ばせるのはもったいないので食用ガエルを養殖して食料の足しにしようと、新宿御苑をカエルの養殖池にした。それを耳にした当時学生の森下は、カエルを獲りに行ったところ、まだオタマジャクシだった。ウナギの頭に尻尾をつけたような大きなオタマジャクシで、これは食べられそうにないと思ったが、せっかく来たのだからと4、5匹持ち帰った。

そのオタマジャクシは背中は真っ黒なのに裏返してみると白く透明で、体の割に大きな心臓がピクピク動いている。心臓に針を刺すと僅かな血液が注射筒に入ってきて、その血液をスライドに載せて観察したら、大きな堂々たる赤血球だった。

手足の無いオタマジャクシの心臓には、すでに成長したカエルと同じ血液が循環していて、当然それが造られる場所は何処かということになる。心臓がピクピク動いているすぐ下に、腸がきれいに渦を巻いて、蚊取り線香のようなスパイラルがあるだけで他には何も見当たらなかった。そのときに、赤血球を造っているのは間違いなく腸だなぁと、直観的に思った。これが、森下が腸造血説に至るきっかけだった。』

とあります。食べ物が腸に行き、血液になる何と単純明解な事でしょう!また、陰陽五行の東洋医学の世界では、肝臓-胆嚢 心臓-小腸 脾臓-胃 肺-大腸 腎臓-膀胱 が陰陽の関係にあり、心臓-小腸が表裏一体であることが古代より伝わっているのです。小腸で血液が出来、心臓で運ばれるという事実を物語っています。

森下敬一先生

名古屋の大沼四廊先生セミナーに行き先生に、

「やっぱり千島学説が正しいですよね。」

とさりげなくお伺いしたことがあるのですが、大沼先生は、ニコッと笑われただけで、お言葉を返していただけませんでした。大沼先生は、森下敬一先生から20年間学ばれたので、千島先生ではなく森下学説を継承されておられます。そこで、森下敬一先生のWikipediaを調べたところ、千島喜久男先生と森下敬一先生は同じ様に、腸管造血説を唱え「千島森下学説」として一般に公表していたのですが、思想的立場の違いから決別されています。それが、下記のWikipediaです。

『昭和36(1961)年、千島は雑誌「生科学評論」に「現代医学の五原則批判」という論説を載せた。これは現代医学批判論であり、森下も大いに共鳴したものの、千島はそれを「千島学説の八大原理」という哲学に飛躍させていく。千島は森下に対し、牛乳推奨論や千島哲学に同調するよう迫り、あくまでも科学的方法で進みたいとする森下を、千島の発行する雑誌「生命と気血」で2度にわたり激しく攻撃する。森下は、科学と哲学という思想的な立場の違いと認識し、黙して語らず、両者の協力関係は消滅に至る[9]。

千島は昭和53(1978)年、十二指腸潰瘍を患い永眠(享年79歳)。昭和56(1981)年、腸造血説などの学説権利について、千島の遺族が森下を提訴するも、森下側が全面勝訴している(岐阜裁判)。』

残念ながら、このような対立があったようです。そこで、未だに骨髄造血説を信じておられる方に、森下敬一先生の実験をWikipediaからご紹介します。 

『森下は敗戦後の医学生時代に、オタマジャクシがカエルに変態していく過程の血液の状態を観察し続けていた。オタマジャクシは手足が無いのに、大人のカエルと全く同じ形の赤血球が同じ数だけ存在しており、造血に手足の骨髄は関係ないことをすでに確認済みであった[5]。

それ以前に、動物の骨髄組織の95%は長幹骨(大腿骨、下腿骨、上腕骨、前腕骨)に存在することを実験によって確認しており、骨髄組織と体を連結している血管を遮断しても貧血が起こらないことも実験で済みである[5][10]。

卒業後の1年間(1951年)、国立相模原病院(陸軍第三病院)にインターンとして勤務し、多くの戦傷者の中で手足を失った兵士たちを観察すると、みな血色が良いことに気づく。彼らに協力を依頼し採血して調べたところ、普通の人より赤血球がmLあたり数十万個多いという結果を得た[10]。』

以上です。

千島学説

 

改めて、千島学説の書を読む

『世界大戦も終わりに近い、1940年に私は中等学校教師を退職し、引きつづいて、九州帝大農学部畜産学研究室の嘱託(しょくたく)として赴任、盛岡時代の恩師丹下正治先生の下で専心研究に打ち込めるようになった。

そこで、丹下教授から「鶏胚子の原始生殖細胞の起源に関する研究」というテーマをいただいて42歳の遅まきながらの勉強に励んだ。そこで私は意外な発見をすることができた。

これまでの研究者は、鶏の胚子の生殖腺(睾丸、卵巣)の組織発生についての研究は、みんな胚子のウォルフ氏体(中腎)と付着している生殖腺を切り離して顕微鏡検査をしていたが、私はそれを切り離さずに中腎と生殖腺とを一体にして標本を作り、それを調べたところ中腎と生殖腺の出来始めものは両者の境がなく連続的であり、しかもその境の付近には血管外に出た赤血球が無数に散在していて、それが原始生殖細胞や生殖腺のすべての細胞に分化、移行をしていることを確かめることができた。

これまでは、生殖細胞細胞は分裂増殖して、子々孫々に伝わるものとされてきたのに、事実はこれに反し、体細胞の一種である赤血球から生殖細胞その他へ移り変わっている状態を見た私は、元は唖然として、自分の目や頭を疑うほどのショックを受けた。しかし何百枚ものプレパラートを入念に調べてみたが、細胞分裂によるのではなく、赤血球から変化するものであることを確認した。』

千島喜久男先生は、赤血球が生殖細胞へと移行する事実にショックを受け、改めて調べても赤血球から細胞が生まれるという事実を確認されたのです。この事実をだれも否定することは出来ません。千島先生はその後、小腸で食べ物が赤血球になることも突き止められました。

つまりは、食べたもので血液が作りあげられ、血液から体が出来るということなのです。事実はこのように単純明解なのです。

アメリカの植民地

医学博士、真弓定夫先生の漫画本「空腹健康法」からの抜粋です。

『戦後の日本に対するアメリカの食糧戦略

昭和20年頃、第二次世界世界大戦後のアメリカには、牛乳と小麦がふんだんに余っていました。これを世界各国に売り込んでいましたが、その時の占領下の日本は1番良い標的となりました。自国の産業も発展させ、さらに、日本民族の文化や心身を劣化させることにもつながります。そこで「ご飯を食べると頭が悪くなる」「米は美容によくない」「ジャパンだからパンを食え」といったような、馬鹿げたことを真面目に吹聴したのです。

そのようにして、日本の伝統的な食文化が、昭和20年に絶たれてしまったのです。これに政治家・大企業・マスコミが便乗したのです。日本の食生活は、健康や安全よりも経済を優先に考えられており、食育、医学、栄養学のいずれも企業のスポンサーが参入しています。企業にとっては、健康な体を作るためには「入れることよりも出すこと」「なるべく食べないこと」などは、経済に結びつかず儲からないのです。そこで「大きい事はいいことだ」「蛋白質が足りないよ」と言う、過食させる方向へ国民を誘導していったのです。』

私は昭和29年生まれ。そのため、幼い頃はまだ戦後のドサクサの風景が残っていました。松山(当時、松山市は私にとって大都会でした)に向かうバスの窓から、橋の下で生活をしている人々を見ることがありました。銀天街(松山の繁華街)では、手足を負傷した軍事服の元兵士が、アコーディオンを弾きながら、お金を要求していました。

小学校では、コッペパンに脱脂粉乳の給食。本当にまずい給食でした・・・・まさしく、エサでした。私が中学校の頃、森永製菓が森永エールチョコレートの宣伝で、山下直純氏の「大きいことはいいことだ」CMソングが流行り、第一製薬が、1964年の東京オリンピックの頃に、出したCMソングは、谷啓さんの歌で「たんぱく質が足りないよ~」大人気だったようです。

ちょうど、高度成長期に併せて、大手食品会社、製薬会社、マスコミが一緒になって、国民を煽ったのです。テレビでは、「チビッコギャング」「ナポレオンソロ」「それいけスマート」「じゃじゃ馬億万長者」「ルーシーショウ」「宇宙家族」「3バカ大将」「名犬ラッシー」「名犬リンチンチン」「トムとジェリー」「ポパイ」「ボナンザ」「奥様は魔女」「フリッパー」「デズニーランド」等アメリカのテレビ番組で溢れかえっていました。今思うと、すごい洗脳だったのですね。

ただ、幸いなことに田舎に住んでいた私は、祖母のつくる漬け物、梅干し、畑で出来た野菜を食べることが出来ていました。カラダは、まだまだ日本人でした。もう一度あの頃の祖母が作っていた食事に戻すことが大切だと、つくづく思います。