ガン

私の鍼治療では、ガンの患者さんを治すことが出来ませんでした。そこで、「血液の質と流れ」が重要であると感じている時、名古屋の大沼四廊先生の治療を受けた患者さんの録画動画を見せてもらいました。

「これだ!」

とその時思い、その日の内に大沼先生に連絡し、体験治療を受けることが出来ました。その大沼先生は、森下敬一先生に20年間も学ばれたのです。その森下敬一先生の本を今じっくり読んでいます。ガンについての一説をご紹介します。

『クスリではガンを治せない

この章では食生活と病気の関係について、とくに、現在どんどん患者が増えているガンを中心にお話しします。

日本は死亡原因の約3分の1がガンで「ガン大国」いってもいいでしょう。お茶の水クリニック(森下敬一先生のクリニック)を訪れる患者さんの8割ほどがガンです。その多くが、現代医療では難治と見離されたような患者さんでしたが、自然医食療法(森下自然医学の食事療法)で、確実に快癒されていっております。

ガンも、食事内容を改善することで治すことができます。というより、むしろガンという病気の性質上、食事療法の効果が出やすいのです。

1982年、全米科学アカデミーは「食と栄養とガン」というレポートでガンが「肉食によって増えること」「穀物と野菜食で予防できること」を大々的な調査データに基づいて発表しました。その発表は当時、世界的なセンセーションを巻き起こしました。しかし、実はその時点ですでに、私ども森下自然医学ではガンの予防だけではなく、治療面にまで食事療法を活用していたのです。

前述したように1966年、国会でのガン対策の審議において、私は食生活の重要性を指摘し、「玄米菜食でガンは治る」と証言しています。一方、その時同時に招聘されていたほかのガン学者たちは、その提言を真摯に受け止める事はなく、「5年以内にガン治療薬ができる」と答弁していました。しかし現在、いまだにガンの予防治療に神に有効性を発揮するクスリはできていません。その気配すら見られていない状況です。

そもそも、クスリや手術・放射線などでガンは治りません。「早期発見、早期治療」の呼びかけはもっともらしく聞こえますが、要するに早期に発見されたガン腫を即刻、手術で切除したり、抗ガン剤で攻めたりするだけの話で、ガンができないようにすることはもちろん、ガンを治療させることもできていません。

進行状態(ステージ)によっても異なるとはいえ、過剰な治療がむしろ心身にダメージを与えたり、再発リスクを高めたりして、それが早期死亡と言う結果に至ることも多いのです。』

これを読むと、一筋の明るい光線が見えます。私は今後この方向で仕事を進めます。

戦国時代の武将の体力

先日、大三島の大山祇神社に行き、国宝、重要文化財の甲冑を見て1m80cmもある日本刀を見た時、戦国時代の武将の体力に驚きました。そして、森下敬一先生著書「健康と美容の食生活」の冒頭にその理由が書いてあったのでご紹介します。

『戦国時代の武士たちは、あの重いヨロイ・カブト甲に身を固め、太刀を振りかざして、山野を駆けずりまわっていた。この我々の祖先たちは、われわれ現在日本人たちよりもはるかにすぐれた肉体を持っていたのである。いや、すぐれていたのは、肉体だけではなかった。

その頃の日本人はどんな特徴を持っていたかは、戦国時代の直後に、日本にやって来たオランダ人の印象を通じても知ることができる。この唐人さんが、驚きの目を持って本国に書き送った通信文は、ヤソ通信や日本西教史などに書き留められている。それによると「日本人は、大きく強靭(きょうじん)な体をしていて、力も強い。また根気があって忍耐強く、そして極めて礼儀正しい国民である・・・」と紹介されている。とにかく、その当時の日本人は、すこぶる開放的で、豪気、そしてよく礼節をわきまえた、辛抱強い力持ちだったのである。

その後やってきた元禄時代の様相は、一変する。人の心が閉鎖的になり、社会の一般風潮は、泰平ムードで、華麗・怠惰に流れた浮世絵に象徴される元禄時代は、鎧甲の戦国時代と対照的である。バイタリティに飛んでいた戦国時代の日本人が、退廃的気風の人間に急変した理由は原因はどこにあったのかそれをよく考えてみなければならない。戦国時代と元禄時代の差を一言でズバリいいきるなら、それは「玄米(雑穀)と白米のちがい」といえよう。

重装備の武士たちが俊敏に動き回るためには、どうしても精白しない雑穀を主食としなければならなかったのである。実際、彼らの兵食は、主に「乾し玄米」であった。また、当時、玄米を精白した白米は「ヒメ」と呼ばれていて、それはお姫様か重病人の食べ物とみなされていた。健康な若者が、かりそめにもにすべきものではなかったのだ。この「ヒメ」が一般民衆の胃袋に入れられるようになった時、あの元禄時代がやってきたのである。元禄人が姫や病人のようになってしまったのも、当然のことと言わねばならない。この頃から、日本人の体格や体質はとみに低下しはじめたのである。』

幸い、私が小学生の頃、オヤツは「乾し玄米」でした。いまでもあの香ばしい味を覚えています。祖母さんが作ってくれていました。また、夏には「ばいしゅ」と呼んでいた梅酒に砂糖と氷と水を入れた飲み物を飲んでいました。暑い中、汗ダクダクになって、茅葺き屋根の家に入ると、暗くて冷んやり、

「ばあちゃん、ばいしゅ!」

が、毎日の定番でした。祖母ちゃんありがとうございました。

森下理論 その1

ついに待望の森下敬一先生著書が届きました。これからは、森下敬一先生の理論をしっかり身につけようと思います。鍼灸師として難病を治せないという自覚が芽生え「血液しかない」と実感し、森下敬一先生の理論に行き着きました。この本には真理が語られています。それを記載します。

『食物は、いわゆる消化作用を受けることによって、次元の高い「生命物質」へと発展していく。この生命物質が腸の粘膜に取り込まれて、ここで赤血球と言う極めて原始的な細胞に変わるのだ。いま、我々の消化管で起こっている生理現象は、かつてこの無生の地球上で営まれた「物質から生命」への発展の歴史である。

原始地球時代に、ボウボウたる時の流れの中で、ゆっくりと進行した「生命誕生劇」を。想いおこそう。そこでは、無機物質から有機物質へ、有機物質からタンパク質へ、そしてこのタンパク質の融合塊から始原生命が誕生した。その途方もなく長い歴史がわれわれの腹の中で、驚くほどスピーディーに短縮されたプロセスで、日々再現しているのである。原始地球時代の「物質発展と生命誕生」の歴史が、われわれのハラの中で繰り返されている。それが、消化と呼ばれる現象の本質であることを、洞察しなければならない。見方を変えれば、われわれのからだは、全く霊妙不可思議な存在、ということもできよう。

食は血になり、血は肉になる

ところで、このようにして腸で作られた赤血球は、体内を循環し、からだのすべての細胞に変わっていく。脂肪組織も、筋肉も、肝臓も、腎臓も、そして脳の細胞までも、すべては赤血球から作られる。われわれの体細胞で、赤血球から作られないものは、ただの1つもない。すなわち、食物は血になり、血は肉(体細胞)になるのである。

それゆえ、体細胞の質、つまり体質は血液、とくに赤血球の質であり、赤血球の質は食べ物の質でもある。体質や気質、物の考え方になどは強く食物の影響を受け、かなりの程度それによって支配されるものだ。したがって、「なんでも好き嫌いなぐ食べよう」と言うような無定見ではなく、人間(体細胞)をつくる上での、適当な食物を再確認しなければならない。そのためには、人間の来し方や人間の生物学的な立場などを、時間的(歴史的)に空間的(場所的)に検討し、「人間なにを食べるべきか?」についてより妥当な結論を出しておく必要があろう。』

これが真実だと思います。多くの人に早く気づいていただきたいと思います。

続きを読む森下理論 その1

ガニ股を考える

70才代の男性患者Cさんは、右に側屈すると右臀部に痛みが出ます。Cさんは、仰向けに寝ると足の小指側全体がベッドにつき横一線になるほどのガニ股です。右側の深部にある筋肉が縮むことで坐骨神経を刺激している可能性はあると思います。理由は、Cさんが右側に側屈すると、坐骨神経の流れにそって痛みとシビれが出るからです。

骨盤の外には、小臀筋、中臀筋、大臀筋といった筋肉があります。Cさんのこれらの筋肉はガニ股のため、かなり収縮しています。これらの筋肉を緩めるには、おヘソを中心にして対応する筋肉である上腕の三角筋前部繊維、三角筋中部繊維、三角筋後部繊維を緩めることです。つまり、中臀筋が痛いようだったら、上腕の三角筋中部繊維の圧痛点に刺鍼して痛みをとります。このように、おヘソを中心にして上半身と下半身が対応しそれぞれの治療点が存在します。しかし、小臀筋、中臀筋、大臀筋は、それほど深部の筋肉ではありません。

梨状筋(りじょうきん)を始めとする仙骨、恥骨、坐骨辺りの筋肉の方が内蔵に近く深部(骨盤の内側)にあります。それでは、これらの筋肉に対応する上半身の筋肉はどこでしょう?梨状筋は胸鎖乳突筋と対応しているように感じます。胸鎖乳突筋の深部には様々な筋肉があります・・・・これらの筋肉が仙骨、恥骨、坐骨辺りの筋肉と対応しているかも知れません。

もっと大ざっぱにいうと、首の筋肉とソケイ部や肛門周辺の筋肉が対応しているのではないかという推測です。ソケイ部や肛門周辺の筋肉は、内臓の平滑筋(へいかつきん)の近くにあるので、筋膜でつながっていると考えられます。

そこで山元式新頭鍼療法(YNSA)での首診を考えてみましょう。首診で圧痛点、硬結点を確認し、内臓の状態を知ります。圧痛点、硬結点を緩める治療点が頭部にあり、置鍼すると首の圧痛点や硬結点が緩み、内臓(例えば、肝臓ならば胸鎖乳突筋の中央部、小腸ならば胸鎖乳突筋の停止する後頭部のくぼみ)が緩んだことになります。内臓を構成する平滑筋は骨盤内の骨格筋とも筋膜を介してつながっています。そのため、骨盤内の骨格筋も緩む可能性があると考えます。

Cさんのガニ股は首診をしっかりと行い骨盤内の緩みを作ることが大事になるように思います。このことを意識して次回の治療を行なってみようと思います。

今回は、ちょっと専門的になり分かりづらかったと思います。お付き合いありがとうございました。

生理学の教科書

私が東京医療専門学校(呉竹学園)に通っていた時の生理学の教科書の血液に関する個所を写真にしました。やたらと難しいので赤線を引きまくっています。これを、医療関係の学生は丸暗記させられるのです。

まず、赤血球の説明です。「赤血球は核を失った細胞である。」から始まります。つまり、骨髄の幹細胞から盛んに分裂して最終的に核を失ったものとして習います。この教科書(生理学:社団法人 東洋療法学校協会 編)のp16では、(5)新生と寿命というサブタイトルがあり、

「赤血球は主に骨髄で産生される。骨髄には幹細胞と呼ばれる未分化の細胞があり、盛んに分裂して、そのなかのある細胞が前赤芽球になり、赤芽球を経て、最終的に正常な赤血球に成熟する。この過程で核は消失する。成熟した赤血球は骨髄から血中に出る。分化と成熟の過程を赤血球の新生という。」

成熟した赤血球が骨髄から出て、これを赤血球の新生という!なんという矛盾。成熟したということは、一番古い細胞であるといっています。その古い細胞が血中に出ると新生と呼ばれるそうです。これは、言葉によるごまかしです。何故こんな言葉を使うのか・・・・それは、体細胞には細胞膜、細胞質、核があり核分裂をして増殖すると習っているからです。つまり、核分裂できない赤血球(核がないから)は、理論的に成熟して核を失った細胞と考えられているのです。

そこで、東京大学医科学研究所の2013年の論文の一節を読んで驚きました。

「従来の血液学の学説では、この自己複製能力は造血幹細胞の特徴的な能力で、その造血幹細胞が自己複製能力を失い、徐々に赤血球・血小板・白血球等の成熟血液細胞を産生すると考えられてきました。しかしながらこれまでの研究では顆粒球やリンパ球の解析が中心で、核を持たない赤血球や血小板については顆粒球やリンパ球と同時に体内で解析したものではなく、従来の学説は必ずしも実験的に証明されているものではありませんでした。」

最後の一文です。「従来の学説は必ずしも実験的に証明されているものではありませんでした。」

1866年に発表された骨髄造血説が2013年まで、実験的に証明されていなかった!今まで、何していたのでしょう?

再び、生理学の教科書に戻ります。p15、赤血球の形状と数

「赤血球は直径約7~8μm、厚さ約1~2μm・・・(中略)・・・赤血球は1μLの血液中に成人男子で約500万個、女子で約450万個存在する」とあります。ものすごい個数です。ところが、人間も含めて動物の骨髄組織は、重量的に見ると約95%が手足の長管骨にあり、長管骨に出入りする血管と言うのは、針の孔が1カ所だけぽつんと空いており細い血管が1本通っているだけです。この細い血管からものすごい個数の赤血球を送ることが、可能でしょうか?

私が、学生(東京医療専門学校)の頃、血液は小腸で出来るという千島学説を勉強していたので、この血液の授業中は、イライラの連続でした。今改めて患者さんに接して、西洋医学の限界をつくづく感じます。血液は、食べたものが細かいモネラというものになり、小腸で赤血球となり門脈を通って肝臓へ行き、カラダ中を巡り体細胞へと変化していくのです。

食べた物が血となり、肉となるのです。

骨髄造血の矛盾

図1

自然医学総合研究所所長の大沼史郎先生の著書「がんの盲点」をの1部を掲載します。医学書、医学関係の教科書で、当たり前に載っている骨髄造血説を何一つ疑うことなく、150年以上も信じている医学界・・・・これで本当にいいのでしょうか?じっくりとお読みください。

『ノイマンとピッツオゼロの過ち

骨髄造血説を世界中に広めた最初の研究発表は、1866年にノイマンとピッツオゼロが、鳥類を餓死させて解体し、その骨髄液中に赤い血液があったと言う文献です。以来この文献が世界中に広まり、常識となったのですが、実は、この文献には、重大な過ちがあります。

骨髄造血説の誤りその1

骨髄造血説の誤りその1は、鳥類(ハトと鶏)と哺乳類の違いを無視して発表した点にあります。鳥類と哺乳類では構造が全く異なります。鳥類は、危険にさらされた時、一瞬にして飛び立つことができるように、骨細胞が小さく骨髄液も少量です。安全な場所を求めて着地して、すぐに餌を取ることができるように作られています。容量の少ない骨髄には骨髄液だけではなく、赤血球など直接動力源となる血液細胞も大量に詰まっています。しかし、哺乳類の構造は全く違います。

骨髄造血説の誤りその2 

骨髄造血説の誤りその2は、骨髄はエネルギーの貯蔵庫で、骨髄液は、脂肪代謝の貴重なエネルギーであると言うことです。哺乳類は危険にさらされても鳥のように飛ぶことができません。究極は敵と戦うことになるか、逃げ隠れして敵が去るのを待つしかありません。そのために哺乳類の骨髄液は、鳥類に比べて大量になければなりません。その理由は、骨髄液は、純度の高いガソリンのような資質で、脂肪代謝の貴重なエネルギー源だからです。つまり、何時間も隠れて餌を取ることができない状態でも、簡単に餓死しないように骨髄液として大量のエネルギーを蓄えているのです。

図1参照

図1の左端鶏の骨髄液を画像で確認したものです。右は牛の骨髄液中の状態です。赤血球の存在は、鳥の手羽の骨髄にはたくさん見られましたが、右の牛の骨髄液中にはほとんど見られませんでした。鳥類と哺乳類ではこれほど異なっているのです。』

馬鹿げた事実(骨髄造血説)を皆んな信じきっています。哺乳類の骨髄は純度の高いガソリンのような資質で、赤血球はほとんど存在しないのです。こんなところで、血液が作られる訳がありません。

大沼四廊先生の師匠、森下敬一先生は脊柱の骨髄から赤血球が作られていない実験もされています。それなのに、世の中では認められていません。こんな状況で正しい治療など出来る訳がありません。

医者は博物学者であるべき

私は、山元式新頭鍼療法(YNSA)を学び実践して3年。気づいたのは創始者、山元勝敏先生の偉大さです。鍼だけで難病を治しておられます・・・150万人もの患者さんの治療をされておられます。私は67才で、難病の患者さんを治すまでには至っておりません。このままYNSAだけやっていても年齢的な限界があると感じ、血液の浄化と血流を良くする治療法を身につけようと、名古屋の大沼四廊先生のセミナーに参加するようになりました。

そこで知ったのが、大沼先生の師匠、森下敬一先生です。森下敬一先生の血液研究こそ、現代医学に最も必要とされているように思います。そこで、改めて森下敬一先生の生い立ち、生き方をWikipedia から紹介いたします。

『両親は、神奈川県津久井郡藤野町(現・相模原市緑区)出身。

父は医師で、敬一の幼少時は、当時日本の統治下にあった朝鮮において病院を運営していた[3]

尋常高等小学校卒業と同時に、敬一は父から奈良県の天理中学校(現・天理高等学校)への入学を言い渡される。理由は、日本の内地でドイツ語を学べる数少ない中学校で、両親の住居に最も近かったためだろうという。

敬一は「青天の霹靂だった」と言いつつも、この全寮制の5年間の教育が、自身の人格形成に大きく影響したと述べている。

天理第二中学名簿 昭和20年卒業

在籍した天理第二中学校は全寮制の男子校で、学校生活は軍隊生活以上に厳しいスパルタ教育だった。教授陣は極めて優秀であったが、厳しい教育システムゆえに1年生から2年生に上がるときには、脱走や自殺などで半減するのが常だった。しかし、敬一はのちに、天理中学のスパルタ教育が自分を変えたと言い、「男は若いうちに一度は集団生活の中で、厳しい規律を体験するべき」と折に触れては述べていた[3]。

戦後、両親が引き上げて来て故郷の藤野に移り住む。当時の藤野は無医村で、父は農業をしながら患者を診るという半農半医を行い、敬一はそこから大学へ通った。

学生時代はあまり勉強するほうではなかったと言うが、研究室に入ってからはがむしゃらに突き進み、約20年の研究室時代には医学だけでなく、そこに隣接する地質学、生物学など、生命に関わるあらゆる分野を掘り下げていった[3]。

のちに森下は、自然医学の臨床活動において、「医師は博物学者であるべき」と述べている。医学は人間を対象とする学問であり、その生命現象はまさに小宇宙であって、物理化学、生物学はもちろん、環境や歴史、意識の問題と、目に見えない世界をも含めて総合的に捉えなければ、正しい方向性が見出せない[4]。

医療というものは、基礎理論の上に臨床が成り立つという体系でなくてはならない。医学と医療が別物だという現代の風潮は不勉強から来る誤解であって、若いうちに進化論的な発想から土台を築き上げて臨床を行わなければ、「葦の髄から天井を覗く」というような狭い視野となり、医療がバラバラになってしまう。こうした懸念は、近年の代替医療に対しても同様に抱いていた[5]。』

現在の医療は、専門分野に分かれて宇宙としてのカラダを見ていません。そうのようになってはいけない「医師は博物学者であるべき」と常に心がけて真実を探求されたのだと思います。

土壌エネルギー

森下敬一先生が、膨大な時間とお金を掛けて長寿の研究をされ、行き着いた結論を以下に述べられています。

『土壌の生命エネルギーなどということは、それまで全く思いもよらなかった。ただひたすら長寿元素を見つけてやろうと、一生懸命に行っては帰り元素分析を繰り返し、やっと判ったことは、元素ではなくエネルギーだということ。土壌のエネルギー、野菜のエネルギー、それを食べた人間がまた土に戻って生命サイクルを回す。だから、人間があちらこちらに移動したらダメになる。生命サイクルが回っているところで、その一部品として人間がそこに誕生する。すべての生命のサイクルが一体となって、大きく循環している中の一分子として人間が存在する場合においてのみ、人間の天寿である150歳というのが与えられるのだ。

現代の科学や医学が、見えるものだけが実在し、見えないものは存在しないという、ひとつの仮設の上に成り立ったところにそもそも誤りがある。特に生命科学においては、見えるものはほんの氷山の一角であって、水面下の見えないものが大部分だということを前提にして研究を進めるべきである。むしろ本質的な問題は、見えない大部分の側にあり、目に見える氷山の一角だけを研究するのでは行き詰まるのは当然であろう。

コンロン山脈の麓に、森下が長寿の調査で4、5回訪問したホータンという町がある。地元の人たちは、コンロンの山の奥に西王母(せいおうぼ)という350歳くらいの婦人が住んでいると固く信じている。彼女は、手のひらに鳥が運んでくれる量の食べ物しか食べないという。この話は、色々な示唆に富む話であって、手のひらに載る程度の食べ物だけで生きているというのは、腸の造血は殆ど営んでいない。その代わり、宇宙エネルギーをとり込んで、それによって血液を造るという経絡造血が完璧に備わり生きているということだろう。

コンロン山脈の大量の雪解け水は、5月頃にタクラマカン砂漠に土石流のように地響きを鳴らしながら、もの凄い勢いで流れ込むという。そのときにホータンも通っていく。その水が、ありとあらゆるものを全部のみ込んで流れて来る様は、初めに流れて来る先頭の状態を頭にイメージして、中国では龍(ドラゴン)という仮想動物を描いたのではないかといわれるほどである。ホータンのコンロン山脈からの水を調べると、生命エネルギーが猛烈に高い。長寿者が住んでいるところは、やはり違っていると感じさせられる[5]。

ユーラシア大陸を見たときに、大陸の中央部は厳しい自然環境に囲まれ、西洋文明があまり入って来ない。西洋文明はユーラシア大陸辺縁の平野部にあり、文明は大陸の周辺から浸食していく。

いわゆる西洋文明は生態系を破壊する一方通行の文明であり、反生命文明といえる。したがって、欧米の文明があるところに「真の意味の長寿(真正長寿)」は存在しない(平均寿命は「疑似長寿」)。それは、ヨーロッパ、アメリカだけでなく、日本も同様である[9]。』

土壌のエネルギー、コンロン山脈からタクラマカン砂漠までの雪溶け水のエネルギーが、龍の如くエネルギーを運び込む。やはり、龍は存在するようです。日本全体が、龍の形をしており私が生まれた河之内が、やはり龍の形をして地元には雨滝(あまたき)という龍神が住むとされる渓谷があります。干ばつで水が無くなった際の最後の砦(とりで)が、この雨滝。重信川(しげのぶがわ)の河口にある松前町から、海水を桶に入れ頭に乗せた「おたたさん」という女性が、この雨滝まで運び、海水を雨滝に投入。すると、怒った龍が天に舞い上がり、雨をもたらすのです。このような伝説のある河之内では、坂本憲俊さんというお百姓さんが、お米の品評会国際部門で2年連続金賞を獲得されました。坂本さんの絶え間ない研究心、努力はもちろんですが、河之内にある土壌がエネルギーを蓄えている事を証明していると思います。

中学生まで、河之内で暮らしそのエネルギーをいただいたことに感謝いたします。

長寿郷

森下敬一先生は、長寿研究のため、30年間近く50回も調査団を派遣しています。これは、貴重な研究です。西洋医学の悪しき一面が横行している日本医学界。もはや、聴診器で患者さんのカラダさえ診ることをしなくなっています(ここ数十年医者にかかった事がないので、実体は分かりませんが、多くの人々が言っているので)。カラダを診ないでパソコンを見るなんて・・・治療と言えるのでしょうか?西洋医学の限界を知った欧米では、統合医療が進んでいるそうです。当たり前に鍼治療が行われています。

いま一度、森下敬一先生の研究から多くを学びましょう。森下敬一先生は後継者を作りませんでした。しかし、研究結果は書物として残しておられます。これは、人類の宝です。もう古本屋でしか、見つかりません・・・何とかして見つけ出したいものです。

『大学の研究室時代から患者の相談を受け、玄米菜食で多くの患者が改善するのを見てきた森下は、お茶の水クリニックでガンをはじめとする慢性病・難病の患者たちが治癒していくことに対し、その裏付けを取りたいと考えるようになった。森下が実践する自然医食は世界的長寿郷の食形態と矛盾しないはずだと考え、カスピ海と黒海に挟まれたコーカサス山脈の南に位置するグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの3共和国から長寿の調査を始めた。昭和45(1970)年当時、グルジア共和国が世界一の長寿郷だといわれていたためである[9]。

Yノート9:森下博士 研究半生を語る(生命母体は時間である)

コーカサス山脈、パミール高原周辺を中心に、1975年から冬を除いて年に2、3回ずつ毎年出かけて調査を行うが、同じ場所であっても5年置きくらいに何度も行く必要がある。なぜなら、生命母体というのは時間であるから、一定の間隔で縦の時系列で見なければ、本当の長寿の調査にはなり得ない。1回だけの調査を100ヶ国回ったといっても何の意味も無いのである。

1970年代には、シラリ・ムスリモフ、メジードガアガイエフなど150歳はザラにいた。それが、1980年代は140歳、1990年代は130歳と10歳ずつ下がってきて、いま(2004年)は120歳になっている。

当初は、長寿郷の水や食べ物や色々なものを日本に持ち帰り、長寿因子を見つけてやろうと野心に燃えていた。ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム・・・など39項目の元素分析を、ありとあらゆるものを調べ続けたが、それは無かった。元素ではない。

1回の調査団は7、8人から10人、1,000万円ほど掛かったときもあるし、平均して500万円ほどで、50回近く調査に出掛けている。30年近くも掛け長寿の調査を重ねて判ったことは、長寿者というのは殆ど生まれた土地を離れない。それから、自分の家の近くに畑を作り完全な自給自足の生活が多い。金銭で物を買うという発想が無く、買うとしてもスーパーマーケットまで行くのに1‐2日掛かるようなところだから、食べたいものは自分で作る以外にない。

結局、彼らは気がついていなのだけれども、土壌の生命エネルギーを自分たちが栽培した農作物に移行させ、それを、そこに住んでいる一家が食べている。そして、それらがまた土に戻る、という生命サイクルが循環している。土壌の命、植物の命、動物の命、そしてまた土壌へ戻る。このサイクルが循環しているということが、長寿の条件だということを森下は教えられた。』

森下敬一先生、桜沢氏と出会う

 

昭和30年代にニジマスや鶏の白血病を完治させていた森下敬一先生は、桜沢如一氏と出会い、助言をいただきました。その経緯を3回に渡って掲載します。この出会いが長寿研究を加速することになります。

『大学研究室時代の昭和31‐32(1956 - 1957)年ころ、当時「日本が生んだ昭和の怪物」と噂されていた桜沢如一に興味をもち、そのグループの集まりに参加した。

森下は自己紹介を兼ねて研究内容を話したところ、桜沢は「それは歴史的な考え方だ。日本から世界に向けて発信されなければならない、ユニークで革新的な真理だ」と言い、その言葉を聞いた森下は、逆に「この人は凄い人だ」と思った。

森下の腸造血説が初めて新聞に採り上げられたのは昭和32(1957)年5月で、桜沢が記事を目にしたかどうかは微妙なタイミングで、これまで森下の話を理解できる者は殆どいなかったからである[5]。

桜沢は、昭和30年代初期から東京光雲閣において例会を開いており、日本の新しい時代を創ろうというメンバーが集まって熱気にあふれていた。例会には、毎回そうそうたる知識人が集まり、森下は足しげく参加するようになる。そこには、西洋医学を学んだ医師で参加する者は、森下以外に全くいなかった。

当時、森下が座間近くの養鱒所で、自身の研究を基に考えた餌でニジマスの白血病を完治させ、次いで鶏の白血病を完治させて、鶏の血液の状態がどんどん変わっていくことを例会で話した。その数日後に桜沢から電話が入り、夫妻で何度も研究所を訪れるようになった。

鶏の白血病完治について桜沢は「勝因は、ある特定の条件でなく総合的な結果だろう」と述べ、土を調べるよう助言する。森下は使用した腐葉土を調べ、1年がかりで2種類の結晶物質を抽出し、黒い結晶は白血球を減らし、白い結晶は白血球を増やすことを突き止めて、それぞれの化学構造を明らかにした上で桜沢に提出した[8]。』

森下敬一先生が、土を調べることで環境の重要さに気づき始めるようになって行かれます。次回は思いがけないような、展開をご報告します。