昨夜は、キッチンの隅(すみ)で片目だけでこちらを見つめ、曲がった尻尾(しっぽ)をこちらに向けていました。「チャルル」っと呼ぶと、尻尾(しっぽ)を2~3回ウチワを扇(あお)ぐ様に動かして、返事をしてくれました。
そして、今日。
居間の戸棚の上が居心地がいい様で、そこから全く動かない状態です。エサもお水も口にしません。チャルルにとって、うちは断食道場のようです・・・・これから、私が治療室に移動します。そのため、チャルルは7時間程、自由に動けるのですが・・・・果たしてどうなっているのやら?
治療の合間にチョット様子を見に行ったのですが・・・・・同じ場所にいて、全くエサを食べていません・・・・・どうやら、ハンガーストライキに入っている様です。ご主人夫婦は、日曜日の午前中にチャルルを迎えに来られますので、そこまでハンガーストライキをしても、大丈夫!死ぬことはありません。とりあえず、チャルルのいるところにエサを移動して様子を見ることにします。
アメリカに連れて行ったネコ達が大変な思いをした苦い思い出が頭をよぎります。一足早くアメリカに引っ越した娘ネコ・ハルは、逃走していなくなりました。アメリカには、自分のカラダを舐(な)めることもできないくらい太ったネコと、納屋のネズミ狩り用のネコが居て馴染めなかったのでしょう・・・・・可哀想なことをしてしまいました。
我々と一緒に引っ越しした母ネコ・ミミは、デカ猫に遠慮して2階から降りることは、1度もなかったと思います。ミミが日本人の感覚を身につけていることのいじらしさを感じました。
チャルルも全く違う環境で、全く見たことのない人にエサをもらうことに、納得していないのでしょう・・・・よく分かります。ハンガーストライキがんばれ❣️
追伸:たった今、チャルルの様子を見に行きました・・・・ハンガーストライキをすんなり止めて、エサを食べていました。これで、一安心。
友人夫妻が大事に飼っているオス猫が、我が家にやって来ました。日曜日の午前中までお預かりします。弟の事務長が猫アレルギーなのですが、最近は治療院に来ることがあっても、2階の我が家に来る事はないので、預かることにしました。
京都・美山町に住んでいる時は、白猫のミミと、娘のハル2匹を飼っていたので、当時を思い出します。2匹ともメスだったのでおとなしかったのですが、チャルルは1才のオス。やはり筋肉のつき方が全く違います。頬(ほほ)も大きく、歩く姿もライオンのように力強く感じます。
チャルルは、立派なケージに藁(わら)で出来た寝床、トイレ、水入れと共に、入っています。私が治療室から帰り、ケージの扉(とびら)を開けても、なかなか外に出ません。私が恐いようですが、ゆっくりゆっくりと外に出て、今は台所の隅(すみ)でじっと私を観察しています。しかも、顔を半分だけ出して、片目で・・・・・・慣れるまで、時間がかかりそうです。
「4年前に子規庵で頂いた糸瓜(ヘチマ)が発芽しました。2株差し上げられると思いますので、スペースを確保しておいて下さい。」
と友人から連絡があり、さっそく本日、我が家まで運んでいただきました。前回、ゴーヤ栽培で失敗した教訓「土が最も大事、大きなプランターにたっぷりの土を!」を生かし、58ℓの土をプランターに入れ用意しました。これだけの大きさに2株なら十分だと思います。
さて、「子規庵」。私は、その存在を知りませんでした・・・・恥ずかしい限りです。そこで、インターネット検索・・・・分かってきました。正岡子規が34才で亡くなるまで8年間過ごした台東区根岸にある庵。明治27年、子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会、歌会の場としたようです。
子規没後も、母と妹が住んでいましたが、大正12年の関東大震災の影響により昭和元年に解体、旧材による重修工事。昭和2年、子規の遺品を保存するため土蔵を建設。昭和20年4月14日の東京大空襲により子規庵は焼失するも、幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。
現在の子規庵は、昭和25年の復元時に、昭和元年の復元仕様を基に施工されたそうです。
それで、これからはあくまでも、想像ですが、土蔵の中の貴重な遺品の中に、ヘチマの種(タネ)があり毎年栽培したため、収穫した種(タネ)は、「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」のDNAを持っている・・・・・しっかり、育てます❣️
治療室の玄関は、石で、床と段差がありません。そのため、積み木を作るのに適しています。患者がいなくなり静かな夜に、ふと積み木を作りたくなりました。ただ、普通に積(つ)むのも面白くないので、床にクスノキ のコブを2つ置き、それ踏んで足元をやや不安定にして積み上げてみました・・・・・この程度のコブなら、全く問題なく普通に積めます。
そこで、かなり大きめのコブに乗り、積み上げてみます。しかも、積み上げる時は片足立ちをして積むというルールを作ると、一気にバランス感覚が危(あやう)くなり、真剣勝負。私の軸がブレるので、積み木の軸もブレる感覚になり、揺れながら積み木を乗せることで軸を確認する感じです。
作り終えて10分以上経ちますが、足ウラがポカポカ暖かく気持ちがいいのです。明日の治療で何か応用できないものか・・・・・と、想いを巡らせています。
本を手元にあまり持っていない私ですが、『あの本は持っていたかも・・・・』っと探していたら、見つかりました。
「木を植えよ!」宮脇昭著(新潮選書)
この本を手にして驚いたのは、最後まで重要な個所にグリーンの蛍光色ラインが引かれている事。もっと驚いたのは、それをサッパリ覚えていない事!情けない限りです。
再び読み始め、我が意を得た個所があるので、引用します。
現在、日本人の92%以上は照葉樹林域に暮らしています。そうした地域には、土地本来の樹種である高木のシイノキ、タブノキ、カシ類を中心に、防災機能を果たす森を積極的に作っていくべきです。高木を支える亜高木として、ヤブツバキ、モチノキ、しろだも、ヤマモモ、カクレミノなどを、混植・密植します。
(中略)
照葉樹を護岸林とすれば、鉄筋やコンクリート以上に、時間とともに、より確実に斜面や堤防を保全する役割を果たします。植物の根は一見弱そうに見えますが、シイノキ、タブノキ、カシ類の並木道を舗装すると、根がコンクリートを持ち上げることがあるほど、底力があります。「柔よく剛を制す」といわれますが、強度においてはむしろ、コンクリートや鉄筋よりも木の根の方が強いでしょう。
(中略)
根本的、長期的な災害対策としては、河川堤防の斜面などに土地本来の照葉樹林形成をめざして植林していくべきです。また、そうした森は、夏の温度上昇を抑え、強風を緩和し、大気や水質の浄化の役目もある程度果たします。景観が、人の心を穏やかにさせるのは言うまでもありません。
これを、めざしましょう!
私の好きなテレビ番組に「ブラタモリ」があります。私がまだ東京で生活している時(平成28年1月30日放送)、松山編を見ました。この番組が本になり、待合室にあります。
私は、18才までしか愛媛県におらず松山の歴史、地理をよく知りません。そのため、博識の天才タモリさんが、地形を見ながら歴史を読み解く様子は、痛快です。そして『オレ、何にも知らんな!』と己れの無知無能を知るのです。
無知その1:現在、51万5千人の人口で四国一の都市・松山は、お城ができる1648年までは、人がほとんど住んでいない広大な湿地であった。
無知その2:扇状地は、河川が山地から低地にに流れ出るところにできる扇形の地形で、河川に運ばれた土砂によって作られるため、洪水が頻繁に起き、そのままでは大きな街は作れない。つまり、扇状地の松山地域は、街造りには不向きだった。
無知その3:都市造りに不向きな扇状地に行った土木工事が2つある。その1つは、暴れ川の石手川に高さ2mの土手を南北に1km造り、洪水を防いだ。もう1つは、石手川の上流の岩堰(いわぜき)と呼ばれる地域の川底の岩盤を掘り下げ、水深を下げ洪水を防いだ。
無知その4:母校松山東高校のグランドに一段高い個所があり、1500m持久走で踏みつぶしていた一角が、その土手であった。
無知その5、あのタモリさんさえ分からなかった岩堰(いわぜき)の秘密。これは、本から引用します。
『「岩堰の川底を深くするのにどれくらいの期間を費やしたと思いますか」。梅木さん(案内人)の問いかけに、「長さ200mでしょ。15年くらいかな」とタモリさん。主な道具がノミですから、それくらいはかかりそう。しかし、答えはなんと「1年ほど」。
作業には農民たちも駆り出されました。掘り起こした石くずを1升持っていくと、同量の米をもらえたそうです。』
凄いですね~、わずか1年で工事を終えたなんて・・・・豪雨が毎年当たり前になりつつある今の日本に、大規模な治水工事が必要です。宮脇昭(みやわきあきら)横浜国立大学名誉教授が提唱している森を土手に造り変えることなど出来ないものでしょうか・・・
読書を余りしない私。そんなに本を持っていません。引越し回数も多かったのでドンドン本は捨てられ限られています。それらの中から24冊を待合室に置いています。一番読みやすいと評判の本が、「近藤林内物語 身だからはイモに大根にムギの飯」。
この本は地元の子供に、地元の偉人を紹介する本のため、大きな文字で全ての漢字にルビを振っています。厚さは3mmほどで週刊誌くらいの大きさ。待合室で読むにはうってつけです。この本の発行所は、林内会。その住所をよく見てみると、私が生まれ育った惣河内神社社務所。ここは別名「一畳庵(いちじょうあん)」と呼ばれているので 一畳庵内 と発行所元を称しています。
今年、近藤林内さんを敬愛する人達が集まって作った本です。
近藤林内(こんどうりんない)という徳のある庄屋さんが、作り酒屋で成功し、その財を地域のために投げ出したという、お話なのです。その一節を紹介します。
『1854年(嘉永7年)36才のとき、金比羅大権現(現在の金比羅寺)と、数年前に焼けた惣河内神社を建て直しするために、地元の大工を連れて京都の寺や神社を見学しました。そして、それに負けないような素晴らしいものを建てようと考えました。そこで自分の山林を寺と神社に寄付し、その木を材木として使用しました。また、神社の境内には見事な石がきをつくりました。惣河内神社の天井は120枚の動物・鳥・魚・植物などの絵がかかれています。これも京都を見学したときに見た寺や神社の天井を参考にしたものです。
「河之内にもこんな天井の神社を作ろう。」
と考えかかせたものであり、この時代のものとしては愛媛県でもめずらしい見事なものです。この寺と神社の立て直しに使われた工事費用のほとんどは林内の財産が使われました。』
私が子供のころ、雨降りの日にこの立派な天井の下で、友だちとよく相撲を取ったものです。たまに負けて(ちょっと強がり)・・・天井を見た時の、絵の素晴らしさにホレボレした事を思い出します・・・特にニワトリの絵が素晴らしいのです・・・いつの間にか、美しいものを見る目を養っていたのかも知れません・・・・林内さん、ありがとうございます。
先日の報道ステーションに母校の野球部が特集されていました。今年はコロナ禍で春夏の甲子園大会が中止になるという異例の年となってしまい全国の高校3年生は、全員試練に立たされました。
そこで、愛媛県では、8月1日(土)より10日間程の日程で、県内1位を決める大会を実施する救済策を決定。この大会とは別に、従来は秋に行っていたNEWS杯という松山市内の松山北、松山東、松山西、松山南高校合同の大会を、6月末に企画されていました。そこで、母校の野球部3年生は、NEWS杯を最後にユニフォームを脱ぐか、8月の大会後に脱ぐか・・・・何度も協議をした結果、前者を選びました。
報道ステーションでは、愛媛大学医学部を目指している持主海翔(もちぬしかいと)君にスポットを当て、NEWS杯の試合の様子や、スポーツキャスターの寺川綾さんとのリモート対談を放映していました。
5年前、21世紀枠で甲子園に出場し、強豪の二松学舎高校に勝利し、準優勝した東海大四校に8回で逆転されるまで勝っていた試合を演じた母校。全国に「松山東ここにあり」と狼煙(のろし)を上げました。その後は少し低迷が続いていますが、報道ステーションが取り上げてくれるのも、うなずけます。
それにしても、持主海翔君しっかりしています。1日に6時間も勉強し医学部を目指しています。私が高校3年生の頃・・・将来の夢見えていませんでした。ぼんやり楽しく過ごしていました。「どうせ愛媛を出るんじゃったら東京に行こう」受験勉強は、運動会が終わったら必死でやろう!くらいの高校生でした・・・・結果、2浪することになったのです。
後輩たちの健闘を祈っています・・・東高ガンバっていきましょい‼️
高校時代の野球部先輩が、愛媛県立美術館で作品に座りこんでいる私の写真を撮ってくれました。その写真を引き伸ばしラミネートでコーティングし、下さいました。
待合室に、物を置いてゴチャゴチャしたくなかったのですが、開院して4年目となると、患者さんから戴(いただ)いたり、治療法の変化により、待合室も少し様変わりしていくようです。
美術館の写真を書家から戴(いただ)いた「夢」の下に貼り、ちょっと面白い本を数冊置くようにしました。美術館で使用した木は、クスノキ で待合室に置いてある木もクスノキ 。そのため、違和感がないだけでなく、作品との関係性も示してくれているように感じます。
また、最近の患者さんは、頭に置鍼した後、待合室で過ごすことが多くなりました。理由の一つは、後頭部に置鍼することが多くなり、うつ伏せの姿勢でのベッド休憩より、待合室でゆっくりする方が楽な患者さんが増えたからです。
そこで、ちょっと気になる本を置くようにしました。その本について会話がはずんだり、ちょっとした勉強会が始まったり・・・・結構楽しんでいます。